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津隈荘
【つのくまのしょう】


旧国名:豊前

(中世)鎌倉期~戦国期に見える荘園名。豊前国京都(みやこ)郡のうち。津野隈・津濃懸(懸は熊の誤か)とも書く。長狭(ながお)川中流域の平野部。地名は隣接する草野が古代には草野津とよばれていたことと関わるか。康平4年より以前,京都郡・仲津郡に散在する宇佐八幡宮の御封田を国の公田と交換して,宇佐宮領の津隈荘として成立した。康平4年には荘内に点在していた公田4町6反をさらに御封田54町9反内をもって交換し,荘田数70・用作1町9反となったが,なお四至内には公田8町2反216歩が混在していたという(宇佐大鏡)。鎌倉期,建久の「豊前国図田帳写」では津隈荘40町となり,天平19年にはじまったとされる万灯会の料米として地子米17石5斗6升を献じていた(到津文書/鎌遺926)。荘内は名編成がとられ,弁分6名と荘分6名に分かれていた(益永文書/大分県史料29)。室町期,弁分名には次郎丸名・三郎丸名・小屋敷名・犬丸名の名が資料に散見するが,天文21年の津濃懸(熊か)荘の名寄帳では,荘分名として恒富名・友次名・米松名・安恒名・米本半名・米光半名・宗正名・老園名・芝原半名・木下半名・小薗半名・桑本名などが書き上げられ(平賀文書/大日古),当初の荘分6名は解体再編成されていたことがわかり,さきの弁分の各名についても再編成後のものである可能性もある。豊前守護大内盛見による応永の宇佐造営にさいして,放生会のための夫10人が津隈弁分に課される定めであったことが報告されている(矢野文書/大分県史料2)。荘内の領主関係は不明な点が多いが,文永2年に津隈弁分の弁済使職を宇佐宮惣検校益永行輔が妻子に処分した例がみられ(益永文書/同前29),正平13年にも惣検校益永内輔が津隈弁分の次郎丸・三郎丸・小屋敷名の武士による違乱をとどめ返還されんことを請うて認められている。正平17年にも内輔は弁分犬丸名が宇都宮守綱の扶持人薬丸三郎左衛門尉に違乱されていたのを南朝方征西府に訴えている(益永文書・薬丸文書/同前2・29)。宇佐宮では神領の領知を神官非器の輩には原則として認めず,それが逆に神官層の在地領主化をうながす結果をもたらした。薬丸氏も宇佐宮弁官丹波氏の一員であったが,その一族に宇都宮氏に従うものが現われたのであろう。文明7年,大内氏は津隈40町を池永修理亮に打渡した(永弘文書/同前4)が,池永氏も元来宇佐宮末社薦社の神官であった家柄で,修理亮は武士化し大内氏に近付いていった者であろう。こうして津隈荘は武家領としての性格を強めていったが,それは特に荘分において顕著であったようだ。文明14年,大内政弘は津隈荘分20町地(池永彦次郎先知行分)を毛利弘元に預け置いている(毛利家文書1/大日古)。また豊後の大友親治も豊前進出を画して津野隈荘内30町を田原千代若丸に預け置いたこともある(田原達三郎文書/大友史料13)。前掲「平賀文書」天文21年豊前津濃懸(熊か)荘名寄帳は同荘分惣田数41町1反30代のうち徳(得)田9町1反20代の徳(得)米24石を,定引・未進を除いて16石3斗の土貢米として周防小郡に送ったことを記している。年貢米の輸送には蓑島の藤左衛門尉が当たっている。一部は山口へも上納された。おそらく,このころ津隈荘荘分は大内氏より平賀氏に預け置かれていたのであろう。江戸期には上,中,下の津熊村が見える。




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「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7212855