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那珂西郷
【なかさいごう】


旧国名:筑前

(中世)鎌倉期~戦国期に見える郷名。筑前国那珂郡のうち。那珂郡が東郷と西郷に分かれた,いわゆる中世的郡郷である。「吾妻鏡」文治3年8月3日条によれば,鎌倉幕府は平家に味方していた筥崎宮宮司秦親重に筑前国那珂西郷・糟屋西郷の地を安堵した(国史大系32‐1)。文治3年8月の日付を持つ那珂西郷の坪付があるが,これは後世のものである(田村大宮司文書/筥崎宮史料)。那珂西郷内の地名としては,あかいのはいのほり・いぬかいのほり・今畠・きやうれう田・小ツカワラ・しつかき・大福寺・辻堂・寺門・はまた・八郎町・はたけた・ひかん田・ひんかきてん・曲淵屋敷・箕田などがあり,福岡市東区から博多区にかけて分布している。嘉禎3年5月,石清水検校と筥崎宮検校を兼ねた田中宗清は,筥崎宮領の那珂西郷ほかを修理別当行清に譲与した(石清水文書/同前)。当時筥崎宮は石清水八幡宮の末社となっていたので,那珂西郷を石清水八幡宮領化していたのである。文永元年9月,筥崎宮の留守心蓮は那珂西郷内の箕田を銭70貫文で売却した(田村大宮司文書/同前)。観応3年の安楽寺領注進目録(太宰府天満宮文書/天満宮史料11)に,那珂東西郷の弥永小金丸・恒用名が見えるが,弥永小金丸は武士のために押領されていた。正平9年には,筥崎宮大宮司秦重仲が那珂西郷内の大福寺畠地6反・曲淵屋敷の返付を訴えている(田村大宮司文書/筥崎宮史料)。同宮内部の社家の対立によって,社領相論がおこったのである。正平19年になると,大宮司領であった那珂西郷内の辻堂畠地1所3反を,俊興房代官の心法が勝手に売却したので,大宮司重政が訴訟したところ,重政に同畠地が返付されることになった(同前)。正平21年の筥崎宮若宮の遷宮に際しては,氏貞が預所を務める那珂西郷には三斗の饗膳米が賦課されている。室町期になると,武家による寺社領の押領が進む。那珂西郷内の地も大内氏家臣阿川大炊助によって押領されたが,康正元年には阿川次郎によって再び押領されている(同前)。戦国期になると,さらにこの傾向は進み,武守による押領や半済をうけるが,寺社側も代官請負などによって年貢の確保を図った。大永3年2月,那珂西郷内20町地と屋敷1所は,大内氏家臣杉長忠に正税米5石で請負がなされた(石清水文書/同前)。その他の得分より公事足30石分の武役(軍役)を勤めるように大内氏から命じられている。那珂西郷のうち20町は実質的に武家領化したのである。同じく那珂西郷内八郎町1町を大内氏より田中藤左衛門尉に給与されていたが,天文2年6月,筥崎宮大宮司に返付された(田村大宮司文書/同前)。天文末年には,那珂西郷内の筥崎宮社家知行分田畠屋敷が全て大村丹後守に給与されたが(同前),天文19年に同宮に返付された。大内義隆の滅亡後,陶晴賢政権下においては,強引な寺社領抑圧政策がとられ,那珂西郷も大内氏の公領と化している(石清水文書/同前)。永禄2年3月には,それまで半済や押領の対象となっていた筥崎宮領那珂西郷180町地が,筑紫惟門から同宮に返付された(田村大宮司文書/同前)。惟門はこの時「武運長久・子孫繁昌・所願成就・皆令満足」を祈っているが,戦国期における戦乱の恒常化により,武神を祀る筥崎宮への信仰が武士たちの間で広がったと考えられる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7213231