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中島町
【なかしままち】


旧国名:筑前

(近世~近代)江戸期~昭和41年の町名。江戸期は博多の1町。那珂川下流の中洲に位置する。魚町流のうち。中世には人家もなく主に湿地帯状の地であったが,慶長年間黒田長政入国後,中洲を整備し,石垣を組み,道をつくり当町を興した(続風土記)。那珂川は福岡と博多の境界で,博多側に東中島橋,福岡側には西中島橋を架け当町で結んだ。西中島橋で結ぶ城下町福岡側は巡見使が城構えと見まがうような石垣を構え,入口には枡形門があった(博多津要録)。当町南部は春吉村の入作地で畠地が多く,博多側から作人橋を通り博多作人が耕作に出かけた。元禄年間の家数63(同前)。宝暦年間の家数63,間数174間余(石城志)。主に黒田氏入国の際,あとを追って入って来た商人達が居住。江戸期を通じて御用聞商人などの大商人も多く,特に京屋(服部氏)は京都出身で代々合羽御用を勤め,のち唐物問屋・旅館などを経営した大商人。京屋,紙屋(紙・薬)商は年行司も勤めた。慶応2年の博多店運上帳によれば,京屋,紙屋,たばこ屋(醤油),吉野屋(長崎問屋も勤めた唐物問屋),香具屋(紙),二口屋(富山薬)などが高額の運上を納めていた。「筑前名所図会」を描いた奥村玉蘭は,たばこ屋の3代目。町の財力は大なるものがあったが,祇園祭の山笠は東中島橋が重量に耐えられぬので建てなかった。しかし松囃子には豪華な「通りもん」を出し,他町に威勢を誇った。江戸中期,藩の政策で町の北側の埋築地を浜新地として取り立て,茶屋や芝居小屋を造り興行などをしたが,2年程で中止となった。浜新地は,のち春吉村に所属。明治期に入ると中洲一帯は旧藩時代の長崎留学組が開業した時計店・写真館・精米所(蒸気機関による)や,第5回九州沖縄八県連合共進会の時建築された洋館の共進館,福岡倶楽部もでき文明開化の先進地となる。当町では,明治5年頃県の為替方御用を命じられた小野組が東中島橋のたもとで営業。同9年には,五楽堂が薬局を開業し,兼業で和漢洋書籍の看板も出した。また店主藤井孫次郎は,筑紫新聞(西日本新聞の祖紙)の明治10年3月の創刊に参画し,協力援助した。同26年福陵新報が博多橋口町から当町に移転し,文化の中心地でもあった。同21年頃福岡側の枡形門も取り壊され,福岡~博多間を結ぶ主要道路となった。明治12年の戸数109,人数504,物産は酒・博多織帯地,民業は工20戸・商58戸・雑業18戸(福岡区地誌)。明治11年福岡区,同22年福岡市に所属。同年春吉村字浜新地を編入。同年の戸数112・人口580(福岡市誌)。明治期~昭和期と老舗が軒をつらね,旅館では京屋・古賀文・松島屋があり,保険会社なども置かれた。当町出身者に洋画家の児島善三郎,日本画の富田渓仙がいる。大正元年浜新地一帯の埋築地は築地町と命名された。昭和20年の空襲で全町焼失。戦後,50m幅の昭和通りが開通し,昔の町並みは消えた。同41年中洲中島町・中洲1~5丁目となる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
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