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中間唐戸の水門
【なかまからとのすいもん】


中間市大字中間字唐戸に所在。江戸中期の堀川開削に伴って設置された水門施設。県史跡。この地は遠賀川が中間市域に入った直後の所で,支流黒川が合流して州をつくっている。付近一帯の遠賀平野は遠賀川の河口から近く,また標高も低いため,古くからしばしば洪水に襲われていた。元和6年にこの地方を視察した福岡藩主黒田長政は,洪水防止をはかるとともに,灌漑や水運の便などをも考慮し,新川を開削して遠賀川をこの地から分流させ,洞海湾に導くことを計画した。そして,翌7年には後年の黒田騒動で知られる家老栗山大膳を総指揮として水路の開削工事に着手したが,同9年の長政の死去などによって工事を中断した。それから1世紀以上を経た宝暦元年に至って工事を再開し,同8年には一応の完成をみた。この水路が堀川であり,当地から現遠賀郡水巻町大字吉田や北九州市八幡西区折尾などを経て洞海湾に通じ,栗山大膳にちなんで大膳堀とも呼ばれ,現在も一部にその名が残っている。また,約半世紀後の文化元年には当地から上流の寿命(じめ)(北九州市八幡西区楠橋)水門まで水路が延長され,全長は約12.5kmとなった。この堀川の流水調節用の水門は,はじめ中島という所に設置されたが,大水でたちまち崩壊するなど構造的に不備であったため,備前国(岡山県)吉井川の石唐戸をモデルとして当地において再工事を行い,文化12年に竣工した。水門は,高さ約3.4m,幅約3m,長さ約3.9mに岩盤をくり抜き,門の前後に厚さ14cmの木の板を12枚ずつ落とし込み,水流を二重に堰き止める構造になっている。これの上部には7本の角石柱を立てて堰板を上下させる装置を造り,さらにそれを瓦葺き・切妻造りの上屋で覆っているが,これは通風をよくするために四方を連子にしている。この水門施設は文政13年に上屋が全面的に改築されたのをはじめ,その後の必要に応じて改修が加えられ,現在に至っている。また,保守管理には堀川受持庄屋や唐戸番などが当たり,通航する舟から川損料銭を徴収してその経費とした。堀川の開削によって洪水が防止され,現水巻町内などでは新田開発が活発化するという副次的な効果もあった。また,藩米の輸送などにも利用され,特に江戸末期から大正期にかけては石炭輸送の大動脈となり,筑豊地方に鉄道が敷設される明治中期までは石炭輸送に活躍する川艜(かわひらた)(五平太船)の往来で盛況を呈した。なお,唐戸とは框を組んで間に板を入れた扉のことであるが,当地に水門が設置されたことから地名ともなったのであろう。また,寿命水門は北九州市指定有形文化財になっている。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7213367