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筥崎宮
【はこざきぐう】


福岡市東区箱崎にある神社。延喜式内社。旧官幣大社。祭神は応神天皇・神功皇后・玉依姫命。延喜21年6月21日に八幡神の託宣があり,穂波郡大分宮(大分八幡宮)から遷座して延長元年に造立された(筥崎宮縁起/天満宮史料3)。理由は,大分宮の節会に参詣する大宰府の官人らが竈門宮(竈門神社)の前を乗馬のまま,あるいは笠をかぶったまま通過することがあり,はなはだおそれおおい。郡司百姓らが饗膳するのに嶮岨な山を越えて数日のわずらいがある。さらに放生会は海上でするが大分宮は放生に不適である。そのため筥崎の松原に移るが,そこは昔天下国家を鎮護しはじめた時,戒定恵の筥を埋め置いた所であるから,新宮は新羅国に向けて西面にし,内廊の左右には護法神を祀り,外廊の南北には往来の修行者を寄宿させよといい,大宰少弐藤原真材らが当地に造立した(同前)。「延喜式」神名帳の筑前国那珂郡に「八幡大菩薩筥崎宮〈名神大〉」と見える。永承6年石清水八幡宮別当清成が筥崎大検校職に補任された(石清水文書5/大日古)。保延6年5月5日に筥崎宮・香椎宮・大山寺らの大衆・神人が大宰府以下の屋舎数十家を焼き払う事件があり(百錬抄保延6年6月20日条),一時当社も大宰府の直接管理下におかれた(石清水文書/鎌遺913)。しかし,文治元年11月には石清水別宮となり,石清水八幡宮の道清が筥崎宮検校に補任された(同前/鎌遺14・17・20)。以後,中世を通じてほぼ石清水祠官田中坊領として存続した。文永11年の蒙古来襲の際,当社は焼失し,神体は宇美宮へ避難したが入れず,上山極楽寺へ移った(八幡愚童記/思想大系)。この時,当社から白張装束の30人ばかりが出て,箭鋒をそろえて蒙古軍に射かけたとの神威を記す(同前)。社殿は翌年再建された。武神としての霊験とともに,参詣者には後世をも約し,「筥崎の松ふく風と波の音たづね思へば四徳波羅蜜」との託宣がある(同前)。武神として篤く崇敬され,文禄元年の筥崎宮領配分状(筥崎宮史料)の合計は1,000石で,黒田長政も500石を寄進している(同前)。大正3年官幣大社に列格。本殿および拝殿はともに国重文で,天文15年大内義隆の再建,「敵国降伏」の額を正面に飾る檜皮葺きの楼門は伏敵門と称され国重文で,文禄3年小早川隆景の再建,一の鳥居は慶長14年黒田長政が建立したもの。そのほか中世・近世の古文書類をはじめ,平安期作の太刀や大内義隆らが当社で催した歌会の懐紙,豊臣秀吉らの詠じた和歌の短冊,南北朝期の石灯籠など数多くの文化財を所蔵する。9月12~18日の秋季大祭(放生会)は「ほうじょうや」とよばれ,県内外から多くの参拝客でにぎわう。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7213785