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畠原下崎荘
【はたばるしもざきのしょう】


旧国名:豊前

(中世)鎌倉期~南北朝期に見える荘園名。豊前国京都(みやこ)郡のうち。弥勒寺領。建久の「豊前国図田帳写」には「畠原庄十五丁」とある(到津文書/鎌遺926)。また,弥勒寺喜多院所領注進状では「畠原庄〈庄田八町 名田八丁〉」とある(石清水文書2/大日古)。この名田部分が発展して下崎荘となり,両者を畠原下崎荘と称したものか。石清水八幡別当坊善法寺尚清が譲与のため定めた元応元年の定書には,当時管領荘々の1つとして「畠原下崎荘」が挙げられている(石清水文書6/大日古)。その後,南北朝期,正平16年ごろから征西府の任命した豊前守護少弐頼澄や給人らによる大野井荘や畠原下崎荘弥勒寺領への違乱が続出した。この非例を,大野井荘代官法橋定源と畠原下崎荘代官僧永勝が連署し善法寺方へ訴え出,征西府に下知されるよう南朝方朝廷へのとりなしを頼んだ。このため,善法寺方では両荘を善法寺坊領とするようになった。畠原下崎荘は弥勒寺領であるとする弥勒寺方との相論のなかで,善法寺側は正安2年の尚清の定置で大野井荘とともに畠原下崎荘も寄進されたとする謀書をつくり出した。しかし,元応元年の尚清定書には,大野井荘は善法寺不断愛染王供料としながら,畠原下崎荘には何の注記もないことを考えれば,畠原下崎荘が大野井荘と同時に寄進されていないことは明らかである。給人らをまきこんだ善法寺と弥勒寺とのたび重なる訴陳の結果,畠原下崎荘は善法寺坊領からはずされた。明応年間の善法寺領九州五ケ所正税所納日記には畠原下崎荘の名は見えない(善法寺文書/唐招提寺史料1)。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7213829