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八院村
【ばちいんむら】


旧国名:筑後

(中世)鎌倉期~戦国期に見える村名。筑後国三潴(みずま)郡三潴荘のうち。正応4年9月2日の関東下知状(松浦山代文書/松浦党諸家文書)に「筑後国八院菅藤三入道唯仏跡」とある。三潴荘内八院は唯仏が本主であったが,悪党行為により没収され肥前国御家人で松浦党一族の山代栄に八院の田地13町,屋敷分23か所,牟田9か所が肥前恵利村の替所として与えられた。恵利村は建治元年10月文永の役で戦死した山代諧に対する勲功賞として子の栄に地頭職が与えられた村であり,その替所として八院が与えられたのであるから八院も蒙古合戦恩賞地ということになる。永仁6年5月鎮西探題北条実政は八院村田地9反3杖,屋敷一所についての白垣宗氏と山代栄との相論に対し栄の主張を認める判決を下した。実政は正安2年3月には白垣道念と山代栄との「白垣郷内両堤東 南新田牟田在家」についての相論に対し,北池以南参町を白垣郷と八院村との堺とすることを命じた。嘉元3年御家人白垣道念は八院地頭山代栄代光賢と栄が悪党を扶持し狼藉をしたか否かについて相論をしており,文保2年には道念の孫子彦童丸は「白垣郷八院堺」について訴訟を起こしたが,正安の裁決どおりであるとして棄却されている。元亨3年唯仏の孫八院教宗は八院村事について鎮西探題北条英時に訴えており,英時は栄に事情を明らかにするよう伝達した。建武4年4月足利直義は山代弘に亡父正の譲状により八院村地頭職を安堵し翌月九州探題一色範氏もそれを認め,暦応2年2月守護代大炊助政俊は現地に臨んで実施した。弘は貞和6年3月嫡子長亀に八院村地頭職などを譲っている(同前)。文保年間三潴荘は領家四条家と地頭との間で下地を中分したが,建武3年7月九州探題一色範氏は浄土寺ならびに宝琳尼寺雑掌快潤の「三潴庄八院村中分一方〈領家方〉田畠屋敷牟田荒野」に対し白垣八郎入道(八院教宗であろう)が濫妨狼藉をするとの訴えに対し,守護代藤原貞兼に西牟田弥次郎入道とともに白垣八郎の狼藉を鎮めるよう命じている(浄土寺文書/南北朝遺698)。命をうけた西牟田定西は守護代とともに八院村に於て実施しようとしたが,白垣八郎は異議を申し退去しなかった(同前/同前702)。しかし翌月の守護代藤原貞兼請文写(同前/同前714)によれば,雑掌を八院村に置くことができた。永和5年4月にも「八院村庄方」は寺領とされている(宝琳寺文書/荘園志料下)。正平15年6月五条頼元は「高良庄内八院」を兵粮料所として木屋行実に与えており(木屋文書/南北朝遺4202),同22年6月権律師円時が八院3反などを至福寺に寄進している(太宰管内志)。なお,文禄4年筑後国知行方目録に「千四百六拾弐石五斗参升 八ゐん村」の石高が見える(立花文書/県史資料4)。関ケ原の合戦は慶長5年9月15日であるが同年10月20日石田三成の西軍方に属していた柳川の立花宗茂と東軍徳川家康方の佐賀鍋島直茂の軍勢が八院・江上の地で合戦をしている。これを八院の戦,あるいは江上の戦役と称する。江戸期の上八院村(大木町),中八院村・下八院村(大川市)に比定される。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7213834