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原山
【はらやま】


旧国名:筑前

(中世)鎌倉期から見える地名。筑前国御笠郡のうち。鎌倉期,寛喜元年5月23日の修理少別当信宗所領注進状案(太宰府天満宮文書/天満宮史料7)に「一所原山水上地」と見え,原山水上地が安楽寺僧の所領であったことがわかる。同地は鎌倉期に安楽寺の信宗―信全―信朝と相伝されており,建長2年6月3日の修理少別当信全所領注進状案と正和2年2月日の少別当兼検校信朝注進状(同前/同前7・9)に同様に記されている。原山には弘仁9年最澄開基と伝える原山無量寺があり,同寺の原八坊が菅原道真の葬儀を務めたといわれ,四王院の別院と伝えられている(続風土記・原山記念碑)。「仁和寺日次記」の建保4年5月9日条(天満宮史料7)によると安楽寺別当定円の訴訟によって,官吏を刃傷した原山の僧15人が諸国に流された。おそらく,この事件は隣接している安楽寺と原山との間の紛争が原因と推定されるが,正安2年7月16日の中村弥二郎宛の六波羅御教書(広瀬文書/天満宮史料9)には「依有智山与原山闘諍事」と見え,有智山寺と原山寺との紛争により,筑前国御家人の中村弥二郎は安楽寺に宿直を命じられている。南北朝期,元弘3年5月26日尊良親王は「太宰府原山」に拠り傍近の諸族を召集し,同年6月の諸氏の宿直勤仕状などによれば中村氏・宮野氏・荒木氏・相良一族などが集まった(広瀬文書・上妻文書・近藤文書・相良文書/天満宮史料10)。一方西走した足利尊氏は多々良浜の一戦をもって九州の大勢を制し,建武3年3月3日に原山に駐し,当地から御教書を発して鎮西の諸士を招くが,「梅松論」には「宰府原山に打あがりし時分」また「将軍原山の一坊に御着有て」と記されている(群書20)。観応元年6月5日の一色範氏寄進状(大鳥居文書/天満宮史料11)によれば一色氏は建武4年に「太宰府原山」において瑞夢を被ったことにより,安楽寺和歌所に田地を寄進している。また貞和7年3月日の都甲惟孝着到軍忠状(都甲文書/同前)に「馳参太宰府原山」とあり,豊後の都甲氏は大宰府に至り,警固に従っている。戦国期,天文4年7月29日および天文15年4月27日の大内氏家臣連署書状(太宰府神社文書・満盛院文書/博多史料4)には「原山衆中」「宰府原山衆徒」と見え,天文年間における太宰府天満宮と原山衆徒の争論のことが知られる。ところで,原八坊の座主といわれる華台坊は鎌倉期より雨乞祈祷を行っており,文永元年に雨壺を開き,華台坊良慶は雨壺縁起を作った(有岡鉄馬氏所蔵文書/天満宮史料8)。この良慶雨壺記(寛永21年写)には「筑前原山無量院」と記されている。現在の太宰府市太宰府の原山一帯に比定される。




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「角川日本地名大辞典」
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