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東中洲
【ひがしなかす】


(近代)明治26年~昭和41年の福岡市の町名。もとは春吉村の字。那珂川と博多川の間の中州のうち早く発達した中島町と区別して,それより南を行政上の東中洲とする。中島町と区別した理由は元々別の洲であったためと思われる。東中洲の西にあたって,那珂川に形成された砂州が陸地化した部分は東中洲に対して西中洲と呼ばれる。弘化4年には福岡藩の精練所が建設され,明治以降の公共施設建設の先駆けとなった。のち中島町の北を浜新地と称したのに対し,同町南を岡新地,その南の中洲南端を南新地と呼んだ。明治10年岡新地の博多川畔に県立福岡病院が開設,同38年には跡地に松浦医院が開業。6年後に画家青木繁が放浪の果てにこの地で病没。明治12年には南新地に県勧業試験場(のちの農事試験場),福岡農学校,同22年測候所が建設されたが,東中洲発展の最初の契機は明治20年の岡新地を主会場とする第5回九州沖縄八県連合共進会である。近代建築共進館をはじめ宿屋・料亭などが建てられ,中島町から南に共進館に至る道路(のちの中洲中央通り)が造られた。それまで中洲畠の名があり人家もわずかであったが,共進会以後居住者が増加しはじめた。同23年の戸数253・人口1,432(福岡市誌)。同24年博多米商会所・博多商業会議所,同28年九州生命保険会社,同29年博多電灯会社,同31年福岡電話交換局が設立され,また南新地にも明治30年頃県知事官舎,同38年福岡煙草製造所が建設されるなど,公共施設・会社が立ち並ぶ博多のビジネス街として発展した。また明治7年最初の劇場永楽社が開業したほか,同30年代には明治座・川丈座・寿座,大正元年に九州劇場が開場,明治30年には中洲券番が開設されるなど,次第に歓楽街としても発展した。同41年には中洲と天神を結ぶ中洲橋・新川橋(翌年西大橋・天神橋と改称)が完成,これを結んで中洲を横断する道路は同43年の第13回九州沖縄八県連合共進会を期して完成した県庁より千代村に至る幹線道路の一部となり,市内電車の福博電気軌道が開通した。これ以後天神地区に官庁・ビジネス街の機能が移るとともに,東中洲は専ら福岡最大の歓楽街としての発展をとげていく。大正期に入ると世界館・電気館などの映画館が相次いで開館し,料理屋・旅館・待合とともにカフェーやバーが立ち並ぶようになり,南新地は花柳街となっていく。同11年以降,市は1~14丁目までの通称町名を付けたがほとんど利用されず,水車橋通り(2丁目)・新橋通り(4丁目)・券番通り(5丁目)・作人橋通り(7丁目)・明治座通り(西8丁目)・明治橋通り(11丁目)・寿座通り(12丁目)・寿橋通り(14丁目)などの通称町名が用いられ,のちには錦町・千日前・楽天地などの町名も新たに用いられるようになった。同12年には電車通りの南北52戸が全焼する大火に見舞われたが復興も早く,同14年以降主要道路が舗装され,また同年には市内で最初の本格的デパート玉屋呉服店が営業を始める。時代の風俗の先端を示す町でもあった。昭和7年博多川沿いを埋め立てて下水道を埋設,上を川畔道路とした。同11年には西大橋が永久橋化された。同20年の空襲で南新地の一部を残して全町が焼失したが,戦後いち早く映画館や飲食店を中心に歓楽街としての復興に向かった。同22~23年頃から仮建築の飲食店が急増し,朝鮮戦争後の好況で本建築となっていった。映画館は最盛期の同31年には17を数えている。昭和23年博多駅前から城内に至る国体道路が南新地の北を通ったが,現在の幅員に拡張されるのは同30年以降である。戦災復興区画整理で那珂川べりは遊歩公園となり,電車通りも拡張され,中洲本通りから中島町まで新しく大通りができた。同30年代以降になると高層化が進んだ。昭和41年中洲1~5丁目となる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7214103