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福岡城跡
【ふくおかじょうあと】


福岡市中央区城内に所在。江戸初期に築かれた城郭の跡。国史跡。慶長5年,黒田長政は関ケ原合戦の功によって豊前中津18万石から筑前一国52万石に増封され,入国後はまず名島城(福岡市東区名島に所在)に入った。名島城はもともと立花山城(粕屋郡新宮町大字立花に所在)の端城であり,豊臣秀吉から筑前国を与えられた小早川隆景と養子の秀秋はそれを修築整備して居城とした。しかし三方を海に囲まれ,城地も後背地も狭く,軍事的にはともかく,政治支配の拠点としては必ずしも適地ではなかったので,長政はあらためて新城を築くことにした。城地として那珂郡警固(けご)村福崎の地,すなわち現在地を選び,その地名を黒田氏発祥の地という備前国邑久(おく)郡福岡村(現,岡山県邑久郡長船町大字福岡)にちなんで福岡と改めた。当時この付近は博多の市街地から離れ,ほとんど荒蕪地といえるような海岸沿いの丘陵地であったので,築城に際しては壮大な縄張りをすることができた。その結果,内城は約24万m(^2),城地の総面積は約80万m(^2)にも及んだとされる。長政の父の孝高(よしたか)(如水)は,当代一流の築城家であり,この築城にあたっても,豊富な経験や技術を生かすとともに,文禄・慶長の役で堅城を誇った晋州城(韓国・慶尚南道)を参考にし,実戦にも耐える堅固な城郭をめざしたという。慶長6年,黒田24騎の一人で,大坂城などの築城にも関係し,石積みの名人と称された野口一成を普請奉行として築城を開始し,7年後の同12年に完成した。形態的には平城であり,その形から舞鶴城とも称された。外郭のうち,北は博多湾,西は草香江の入江など自然地形をたくみに利用し,南には肥前堀などを設けて東の外堀ともいうべき那珂川につないでいる。肥前堀の名は佐賀藩主鍋島直茂がその掘鑿を援助したことにちなみ,位置は現在の中央区天神付近にあたる。これらによって区画された土地の上に内堀を掘り,その内部を石塁などによって本丸や二の丸・三の丸などに区画し,石塁の上には大小47の櫓を築いた。天守閣は最初から築かれなかった。これは築城が大規模であったので,幕府の疑心を招かないための配慮という。そのため諸城に見られるような立体的構成美には欠けているが,規模の雄大さや堅牢という点では西日本屈指の名城であったと評価されている。黒田氏は江戸期を通して転封されることもなく,当城はその12代260年の居城として明治維新に及んだ。廃藩後の城内にはしばらく福岡県庁が置かれたが,明治9年に現在の中央区天神に移転した後は陸軍兵営となった。しかし戦後は市民に開放され,とくに昭和23年の第3回国民体育大会の主会場とされてからは福岡平和台総合運動場と呼ばれ,野球場や陸上競技場など各種の運動競技施設を備え,現在では舞鶴公園の名で都心部に位置する公園として利用されている。そのほか,裁判所や国立病院なども置かれているが,内堀や石垣などの一部も残り,それは雄大な近世城郭としての景観を保つとともに,公園の重要な構成要素ともなっている。福岡城関係の建造物の多くはすでに失われているが,若干が残り,往時をしのばせている。まず,南丸の多聞櫓は嘉永7年に改築され,今なお当初の姿をとどめ,国重要文化財に指定されている。渦見門とも呼ばれた大手門と潮見櫓に加えて,長らく大正寺(北九州市八幡東区東台良)に移建されていた祈念櫓も最近再び城内に移され,これらはいずれも県指定文化財である。また,表御門(本丸正門)と月見・花見両櫓は黒田家の菩提寺である崇福寺(福岡市博多区千代町)に移建され,山門や仏殿に転用されており,これも県指定文化財である。なお,平和台球場の南辺部一帯は,古代大宰府の迎賓館である鴻臚館(こうろかん)の遺跡に比定される場所であるが,福岡城の築城をはじめ,近年のいろいろな建設工事などによって,遺構はすでに削平されている可能性が大きいようである。しかし,幸いにも,輸入陶磁器を中心とする関係遺物は篤志家によって採集され,現在は九州歴史資料館(太宰府市)や福岡市立歴史資料館などに保管・展示されている。また,古瓦類も特徴的であり,軒先瓦の型式分類において鴻臚館式と呼ばれるものは8世紀前半代に編年され,大宰府政庁跡(特別史跡大宰府跡,太宰府市大字観世音寺)からも最も多く出土するが,それはここを標式遺跡としている。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7214345