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藤山
【ふじやま】


旧国名:筑後

(中世)南北朝期に見える地名。筑後国生葉(いくは)郡のうち。地名の由来は藤の木の繁茂する山の意か。耳納(みのう)山地最高峰鷹取山南麓の谷間に位置する山間僻地。北朝応安8年正月日の山内通忠軍忠状(山内首藤文書/大友史料8)に「藤山御陣御共仕」とある。すなわち応安7年10月探題今川了俊は,筑後の南軍討伐のため子息今川義範を筑後に派遣したが,同文書によれば,義範は11月10日に御井郡の八町嶋から筑後川を渡って同12日に耳納山麓の石垣城(現田主丸町)を攻略,同17日に藤山に陣したという。この行軍に加わった毛利元春の永和2年3月日の軍忠状(毛利文書/同前)によれば,今川義範は耳納山を登り,同17日には高牟礼・黒木を攻略したとある。また応安8年2月日の田原氏能軍忠状(入江家蔵田原文書/同前)によると,石垣城の「耳納山凶徒」を追い落とした後,同15日に黒木・北河内に打ち寄せ,16日に黒木城を攻めたとある。これらのことから,探題方の軍勢は耳納山を越えて星野経由で黒木に向かったと見られる。藤山の地名は御井郡南部(現久留米市)にもあるが,この場合の藤山は耳納越えの軍事ルートにあったと見るべきであろう。永和元年7月日の深堀時広軍忠状(深堀文書/佐賀県史料集成4)には「十一月十二日被渡河,石垣・麦生・黒木・藤山」を経て肥後へ向かったと述べていることからもそのことがうかがえる。近世まで生葉郡星野村に属し,近代以降八女(やめ)郡星野村の一部となった。現在の星野村古塚のうち。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7214431