100辞書・辞典一括検索

JLogos

29

豊州炭鉱
【ほうしゅうたんこう】


田川郡川崎町池尻にあった炭鉱。古くは明治7年6月15日付けで,佐々木恒平が田川郡池ノ尻村手ノ浦野山に620坪の借区許可を受け,その後借区を増加するとともに,ほかの数名と共同営業組織を作り,池尻炭鉱の名で採掘していた模様である。その後一時中止していたが同28年9月,豊州炭鉱と組織を改め,坑名も豊州炭鉱とした。片山逸太を社長とし,佐々木恒平ほか数名の取締役が経営に当たったが,同30年12月現在47万1,100坪の借区に第1坑・第2坑・第3坑を開削し,多くの炭層のうち煽石と四尺層を対象に,約150人の坑夫(うち50人が女子)で1日平均20万斤内外を出炭していた(筑豊炭坑誌)。3つの斜坑は本卸の延長がそれぞれ140間・40間・100間で,いずれも坑内で連絡していた。汽缶は1坑に3台を備え,坑内ポンプも12インチ4台を坑内に据え付けていたが,捲揚機はまだなかった。運搬は坑口から後藤寺駅まで約800間を馬車で,そこから豊州鉄道で門司港に送っていた。同35年11月10日,坑内火災が発生し,死者11人を出して29日鎮火した。このこととの関係は不明であるが,翌36年9月10日,臨時株主総会で会社解散を議決し,これ以後,宮崎儀一の個人経営となり,坑名も宮崎豊州炭鉱と改めた。「本邦鉱業一斑」によると,同37年に250人の坑夫で7万3,040tを出炭している。また「本邦鉱業の趨勢」によると,同39年の出炭は7.7万tで県下の炭鉱で8番目の規模であった。この時期,炭鉱労働は納屋制度から直轄制への移行期であったが,宮崎豊州は直轄制の例として,坑外取締8人を置き,坑夫募集・風紀・衛生などの取り締り,人繰,その他を世話し,ほかに組長が10人あり,坑夫の中で品行方正者を選任し坑夫の監督に当たった。手当は年2回(2~3円)であった(筑豊石炭礦業史年表)。同40年9月,坑内火災が発生,10月上旬に鎮火した。また10月12~13日には坑夫100余人が,石炭の切賃を職員が一部着服したと申し立て,同盟罷業を行い,香春警察署から諭告を受けた。「日本炭礦誌」によると,同41年3月現在,第1~第5坑からなり,四尺炭・三尺炭・八尺炭・五尺炭・尺無炭・盤下炭の6層を採掘して,明治40年に8万1,000tを産出した。また労働者は男791人・女210人(同41年2月末)で,採炭方法は各坑とも残柱式であった。なお第4坑は同40年5月開坑,第2坑は同41年1月の創設で,特に第4坑では将来1日600t以上を採炭する計画とされている。しかし同42年6月になると炭況不振のため,五尺第2坑の採炭を縮小し,尺無第2坑の採炭は終了し,8月に廃坑とし,第3坑は浸水のため採掘を中止する事態となった。このため同年の坑夫移動は雇入97人・退山412人・在籍数547人となった。同43年には五尺坑で,汽缶給水用に12インチスペシャルポンプ1台を中元寺川畔に設置したが,同44年事業縮小に追い込まれた。日露戦争後の不況で,豊州炭鉱はいったん消滅したもののようで,大正7年の福岡県下主要炭鉱の中にその名はない。第1次大戦ブームが去った同9年の「本邦鉱業の趨勢」に,「豊州炭鉱,創業日なお浅いため,施設を拡充,十二インチ捲揚機一台,七尺径ボイラー一台,坑夫納屋十戸,住宅二棟増築」とあるので,宮崎豊州消滅の後,大戦ブームの中で同名の炭鉱が再現したものと推定される。第1次大戦後の不況と昭和恐慌の間,豊州炭鉱の名は再び表面に現れなくなるが,上田清次郎が大正12年に生地の川崎町で豊州炭鉱を手がけたという記録があり,また,昭和8年11月に豊州炭鉱選炭場新設(1日平均150t)という記事が「本邦鉱業の趨勢」に見えるので,中小炭鉱によくある好不況に伴って浮沈を繰り返したものと考えられる。同14年には鉱業報国会の結成が報じられ,また同年869人の坑夫で,12万9,160tを出炭している。さらに同17年には25万1,251tと戦時大増産を示し,同18年の月平均出炭能率は10.1tであったが,同19年には,9月末の労働者数2,025人(うち女子489人)で,17万2,516tの出炭にとどまり,生産力の限界を露呈した。戦後の同21年に正月早々,田川郡のほかの中小炭鉱とともに増産運動を展開し,同22年度の生産規模は年産5万~10万tクラスであった。傾斜生産の下で経営者の上田清次郎が2,016万6,000円,同族の上田米蔵が1,620万1,000円の復金融資を受け,生産の増強を図った結果,出炭規模は10万t台に回復し,鉱主上田清次郎は同28年度の個人所得全国第1位になった。同29年7月,落盤で5人生埋め(死者2人),同30年1月,第2坑で裸電線のスパークによるガス爆発(死者6人,重軽傷者3人),同32年7月5日,豪雨によるボタ山崩れで10世帯が埋まるといった事故に続いて,同35年9月20日には中元寺川堤防が豪雨のため決壊し,陥没穴を生じて川底から古洞伝いに川水が流入し,豊州炭鉱は入坑者204人中67人が行方不明のまま水没した。同月29日,117人の人員整理と147人の配転でいったん交渉が妥結したが,翌年周辺の古洞で火災が発生したため,同年3月31日古洞に注水し,遺体収容作業は打ち切られた。同年4月17日,豊州炭鉱を休山とし鉱員539人を全員解雇する交渉が妥結し,8月21日,最終的に閉山と決定した。同39年5月2日,豊州炭鉱(13万3,368t,881人)は石炭鉱業合理化事業団による閉山交付金が決定した。なお豊州炭鉱の経営主体は,昭和32年当時,鉱業権者上田清次郎の下で上田米蔵が租鉱権を設定した形をとり,同35年には上田米蔵が鉱業権者,さらに同35年7月1日付けで糒炭鉱を統合して上尊鉱業(社長上田尊之助,従業員1,800人)となった。この当時の鉱区面積は2万671a(約62万坪)で,昭和34年度出炭は13万9,000t,常用労働者859人であった。また田川郡香春(かわら)町中津原に昭和28年,上田尊之助が創業した第二豊州炭鉱があり,豊州炭鉱水没後は年産15万t規模に拡張したが,同47年に閉山し,同年11月24日,石炭鉱業合理化事業団による閉山交付金が決定した。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7214567