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三毛北郷
【みけのほくごう】


旧国名:筑後

(中世)鎌倉期~室町期に見える郷名。筑後国三池郡のうち。三池北郷とも書く。「和名抄」に見える古代の三池郡四郷に代わって新たに成立した郷。その領域は,おおよそ白銀川以北と推定されるが永仁5年10月22日の荒木宗心大間帖案(近藤文書/鎌遺19488)によれば,「みけのほうかう(北郷)のうち,みやへ(宮部)のむら」とあり,白銀川上流では,川より南に位置する宮部村が北郷に属しているので,かならずしも川を境界としたわけではない。元来,国衙領であるが,郷内においては,甘木・倉永・深浦・尾尻・池田の各村は近衛家領三池荘に属し,また北部には九条家領三毛山門荘があり,楠田・野志・長坂・野尾井の4か村が山城三聖寺領となるなど複雑な在地の状況を呈した。南北朝期の観応3年2月日書写の安楽寺領注進目録(太宰府天満宮文書/天満宮史料11)に三毛北郷は南郷とともに半不輸領として記載されているが,安楽寺領化の時期や事情については明確でない。しかし,これより先元弘3年10月20日の輔大納言家御教書(太宰府神社文書/同前10)によれば,三毛南北両郷の書生職が安楽寺留守職の大鳥居信高に安堵されているので,その成立は鎌倉期にさかのぼると見られる。明徳2年正月7日の菅家長者御教書(小鳥居文書/同前12)によると,三毛北郷に対して大浦寺が違乱に及んだが,領家菅原氏はこれを元の如く萱方法眼房に安堵した。このあと応永2年閏7月25日の法眼信満・信雄連署注進状(太宰府天満宮文書/同前)では,南北両郷とも不輸領となっているが,戦国期になると,北郷における安楽寺の支配は大きく後退し,明応年間頃の大鳥居知行所領注文(太宰府神社文書/三池荘史料)では,「野志六町」を留めるにすぎず,しかも2町分は岩野方への質券,残りは郡代の知行地にあてられていた。このように,安楽寺領としての三毛北郷は戦国期には崩壊するが,永禄6年8月28日の三池親員寄進状(同前)には「北郷之内田地一町」とあり,また同じ頃の地福寺(三橋町)の自然石板碑にも「筑後州三池北郷今福村」とあって(有明地方石文集),「北郷」の称は中世末まで残存していたようである。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7214840