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麦生
【むぎお】


旧国名:筑後

(中世)南北朝期から見える地名。筑後国竹野郡のうち。永和元年7月日の深堀時広軍忠状に「石垣・麦生・黒木」などに出陣したとある(深堀文書/今川了俊関係編年史料上)。応安7年11月12日筑後川を渡った今川軍は宮方の拠る石垣城を攻略し,水縄山を越え黒木城を落とし肥後へ向かって進攻したが,深堀時広はこのとき御陣の宿直警備の任にはげんだという。室町期には,大友政親が豊後と筑後半国に守護職を有することに不満をもつ菊池為邦・為安兄弟が,寛正4年黒木・三池の筑後軍と高良山に陣をしいた。これに対し大友氏は豊後日田の高井岳を本陣として筑後に進攻,星野氏の妙見城をはじめ,同6年10月17日の光憧(勝光寺カ)書状によれば,「麦生・鷹執」に至る4か所の村を攻略したという(大友家文書録/大友史料11)。幕府は大友氏の領分へ侵入したことを責め,菊池氏の筑後半国守護職を奪い大友親繁を筑後国守護職とした。親繁は応仁2年8月17日,筑後高良山別所城における戦功を賞し志賀親家に「麦生村伍拾伍町」を与えているが,麦生城を戦略的に重視した配慮だと思われる(志賀親長氏家蔵文書/同前)。天正6年3月書写の筑後国領主付によると,麦生城に星野右衛門大夫が居し,「麦生居竹野郡麦生村」と見える(大友史料24)。年月日未詳の大友義長から麦生七郎への預状には「名字地麦生村50町分」とある(麦生文書/郷土久留米36)。江戸期の東麦生村・西麦生村一帯,現在の田主丸町益生田のうちに比定される。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7215137