芳雄炭鉱
【よしおたんこう】

飯塚市と嘉穂郡庄内町・稲築(いなつき)町にまたがってあった炭鉱。広く庄内町の綱分炭鉱と,嘉穂郡の桂川(けいせん)町・碓井(うすい)町・穂波町にまたがった吉隈炭鉱を含めて芳雄炭鉱と総称したこともある。もともと山内・上三緒・愛宕の各炭鉱からなり,麻生鉱業の石炭生産の本拠であった。「麻生百年史」によると,麻生太吉が父賀郎とともに初めて採炭事業に着手したのは明治5年,目尾御用山の採掘であった。翌6年,麻生父子は忠隈および有井山で採掘を試みたが,思い通りの採炭はできなかった模様である。しかし「鉱山借区一覧表」によると,同7年4月15日付けで穂波郡忠隈村山王谷1,000坪と,同年4月22日付けで嘉麻郡有井村下笠松2,137坪が麻生太吉に許可されている。麻生は同10年,有井開ケ谷坑,同12年有井泉ケ谷坑を共同で開発したとされるが,まだ蒸気排水ポンプもない時代で,企業化には程遠かったといわれる。同13年,麻生はほかの2人と共同で,鯰田浦田坑と寺ケ坂坑の開発に着手,他方で綱分煽石坑の共同採掘を始めた。その後綱分の煽石の利益を元に,同17年から鯰田炭鉱,翌18年から忠隈炭鉱の本格的開発に着手した麻生は,同19年から20年にかけて着炭には成功したが,折からの不況と政府の撰定鉱区制度施行に伴って,同22年,鯰田炭鉱を10万5,000円で三菱に譲渡した。これで資金を得た麻生は,上三緒・綱分・笠松の鉱区を買収する一方,同年6月笠松炭鉱を開坑,深さ45mの竪坑を開削して,新式の排水ポンプと捲揚機を設置した。しかし不況による炭価の低迷が続き,それに加えて長雨による遠賀(おんが)川の決壊で,同24年7月,笠松炭鉱は水没し,麻生はこれを放棄して忠隈に移った。忠隈は先に着炭を確認して,いわば取って置きの炭鉱であったから,その開発に全力を注いだが,この年の水害で浸水し,その上断層が出現したため事業は再び行き詰まった。折から住友による忠隈買収の話が起こり,同27年4月,10万8,000円で譲渡された。麻生はこの資金で,同年9月,上三緒第1坑の開坑に着手するとともに,先に水害で放棄した笠松坑を斜坑方式で改めて開発し,山内炭鉱とした。上三緒第1坑は同29年に機械を据え付けて採掘を開始,次いで同32年2月,第2坑を開削し,山内・上三緒鉱区を合併して芳雄鉱区と改称した。ひき続いて山内の第2坑・第3坑,同45年上三緒3坑,大正2年上三緒4坑および5坑を開坑したが,明治38年の「本邦鉱業一斑」によると芳雄炭鉱の出炭は,明治36年の4万9,730tから同37年10万2,478t,同38年12万7,295tと急増し,鉱区も165万余坪,鉱夫数も明治36年の198名から,同38年には676名に増大した。さらに「日本炭礦誌」によると同41年6月現在,芳雄鉱区は191万余坪となり,坑内外鉱夫数は1,787名に達した。その後も大正年間に上三緒の第6坑・第7坑および山内の第4坑・第5坑が開坑されたほか,昭和8年には上三緒の北2坑・新1坑と新たに愛宕炭鉱が第1坑を開坑した。さらに同9年山内新坑が開坑されたのに続いて,戦時体制に向かってそれぞれの炭鉱で数多くの斜坑が開削され,生産も同15年に上三緒16万1,401t・山内22万1,068t・愛宕10万4,219t,合計48万6,688tの記録を作った。この年,綱分・吉隈・豆田を加えた麻生の筑豊全体の出炭量は約128万tであった。しかしその後生産は漸減し,同19年には芳雄の3炭坑で約40万t,翌20年には約14万tであった。戦後は上三緒南2坑でいち早くカッター採炭を試みたのに続いて,同25年には各坑で鉄柱を導入,同26年5月上三緒新1坑でカッペ採炭,さらに同33年上三緒3坑でホーベルを採用,掘進面でもシェーカーを導入したほか,曲片にクルヘンバンドやエアーロコを敷設するなど機械化を進めた。また,昭和22年愛宕新坑,同23年愛宕辰巳坑,同27年上三緒三尺坑,同28年上三緒鳥羽坑・愛宕小型2坑・上三緒三緒浦坑,同29年山内本坂坑,同30年上三緒煽石の2坑・3坑,同33年上三緒煽石4坑を次々に開坑する一方,昭和19年の本谷露天掘坑に続く露天掘りを,同26年黒切,同32年有安,同36年上三緒の馬の背・三緒浦,同37年上三緒の鳥羽・新稲築・飛川谷,同39年上三緒赤松尾に展開した。この間昭和28年9月,愛宕炭鉱を山内炭鉱に吸収し,その山内炭鉱を同30年7月に上三緒炭鉱に統合したが,芳雄全体としては昭和27年の31万9,700tを戦後最高として再び下降線をたどり,同39年8月29日,上三緒新1坑が閉山して石炭鉱業合理化事業団による閉山交付金が決定したのに続いて,翌40年4月1日,上三緒炭鉱が閉山交付金を申請した。芳雄炭鉱を構成した各炭坑の坑口は,山内が明治29年以来11坑,愛宕が昭和8年以来14坑,上三緒が明治27年以来25坑であり,これらの炭坑で採掘された石炭は総計およそ973万tであった。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7215585 |