100辞書・辞典一括検索

JLogos

14

浅浦村
【あさうらむら】


旧国名:肥前

(近世)江戸期の村名。藤津郡のうち。鹿島川支流黒川上流域に位置する。佐賀本藩領・鹿島藩領。能古見(のこみ)郷に属す。「慶長国絵図」では「恒広ノ内」に見える。当村のうち平坦部の大部分は佐賀本藩領で嬉野(うれしの)氏が知行し,山林は鹿島藩領であった。給人・地米高は,「玄梁院様配分帳」では嬉野左近193石余,「大小配分石高帳」では諸岡伴之進7石余・嬉野与右衛門175石余・多久勘助10石・志波左伝太10石・松村久之進10石・洪助之進5石。村高は,「正保国絵図」「天明村々目録」ともに248石余,「天保郷帳」では284石余,「旧高旧領」では佐賀本藩領313石余。「宝暦郷村帳」「天明郷村帳」ともに小村に平山村・味嶋村・馬場村があり,「宝暦郷村帳」では小村であった両岩(もろいわ)村は,「天明郷村帳」では1村として見える。なお「宝暦郷村帳」で塩田郷のうちに1村として見える鳥坂村は,「天明郷村帳」では袋村のうちに,万延元年改郷村帳では当村のうちに見える。享和元年写御領中郷村附では嬉野五郎太夫の知行地となっている。嬉野氏が当地を知行することになった由来は,竜造寺隆信の藤津攻めに際し忠功があったため天正5年嬉野元可が鳥坂村のうち70町を給せられたことによる(嬉野家文書)。明治初期の戸数171・人口980(能古見村誌)。独自の産業に甚八笠と称する竹皮で編むすげ笠製造があり,木材・薪炭・竹材などを産出した。寺院には嬉野元可が開山した曹洞宗瑞祥山元光寺があり,裏山には元可の人形(ひとがた)墓石が残る。神社は救世神社で神殿に元和2年銘の石造彫像狛犬1対が残り,村内には弁財天,六地蔵などの石造物が多い。村内は,倉谷・郡山・成清・五反田・竹ノ下・楢原・山中・正金・大溝・畑田・塚原・谷口・八ツ枝・徳永・長者原・春木・馬場・大谷・大輪谷・清地庵・野方・桂木・本越・岩屋・仏谷・板ノ坂・坂・ウナメ・古湯・三源寺の小地名からなる。「明治7年取調帳」では三川内(みかわち)村の枝村として見える。「明治11年戸口帳」によれば,三川内村のうちに「浅浦村」と見え,戸数179・人口857。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7215819