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綾部城
【あやべじょう】


三養基(みやき)郡中原(なかばる)町大字原古賀(はるこが)字綾部にあった城。背振山地南麓の平坦地を望む綾部神社裏の丘陵上(128.1m)に設けられた山城。前方は筑後(ちくご)川を挟んで久留米(くるめ)の高良山と対峙し,背振山の南麓では日の隈山(神埼町平山)・朝日山(鳥栖(とす)市村田)と結ぶ線上にあり,眼下には寒水(しようず)川をのぼり七曲峠を越える間道と,田手(たで)川をのぼり坂本峠を越える間道とを望み,博多に抜ける道をおさえる交通の要所に立地する。大治5年頃藤原道長の5代孫藤原通幸が肥前権守として綾部荘に下向した。通幸の子通良(日向太郎)は肥前国追捕使兼検非違使に任ぜられていたが,平治の乱に呼応して綾部城で兵をあげ長期にわたって中央政府に対抗していることから,当時既に築城していたと思われる。鎌倉期になると文治3年通良の子通俊に綾部荘が,通宗に嘉瀬荘,末弟通益に白石(しろいし)がそれぞれ与えられ,綾部・白石・加世と改姓した。その後綾部城は綾部荘城主綾部氏の居城として続いた。「北肥戦誌」巻1に「茲に因りて鎮西の輩,各々人夫を具して博多の津に向ひ,請取の役所を定め,彼の石築地を普請す。其輩には(中略)肥前国に(中略)白石次郎入道(中略)綾部又三郎幸重」とあり,綾部氏は肥前国の有力な御家人であった。南北朝~戦国期にかけて九州探題の一色・今川・渋川3氏は綾部城に居城することが多く,しばしば激しい戦いが繰り返されたが,元亀2年竜造寺隆信に綾部鎮幸が滅ぼされて終止符を打った。その後,勝尾城(鳥栖市河内町若林)に拠る筑紫氏の一方筑紫四郎右衛門尉が城督として居城していた。「城数之覚」(筑紫古文書)に「綾部城〈三根郡〉 此城子細有テ竜造寺江渡ス」とみえ,竜造寺氏に譲られている。




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「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7215861