100辞書・辞典一括検索

JLogos

16

伊勢屋町
【いせやまち】


旧国名:肥前

(近世~近代)江戸期~昭和45年の町名。江戸期は佐賀城下の1町。寛政元年の幕府巡見使への報告に見える城下三十三町の1つ。多布施(たふせ)川西岸,佐賀城の北西に位置する。町名の由来は西端に鎮座する伊勢神社にちなむ。町筋は長崎街道に沿い,北の多布施町から南行し,西へ右折して西行し伊勢神社に至る。西は伊勢屋本町と連なる。町の長さは137間1尺。「勝茂公譜考補」には「天正十九年蠣久ヨリ佐嘉へ町御引キ移シノ時,六座町・伊勢屋町・中町・白山町ヲ始メニ御引キナサレ,其後段々諸町立ツ」とあり,当町は慶長13年の城下町割り以前から町造りが行われていた古い町の1つであった。竈数は,承応3年佐賀城廻之絵図では78,元文5年屋敷帳では58。嘉永7年の伊勢屋町竈帳の総竈数73(明家2),人数328(男167・女161),身分別竈数は家来3・徒士4・足軽25・職人2・被官8・仲間1・その他の有姓者1・座頭1・町人26,とくに多い職種の竈数は米屋5・日傭取4。割借屋・抱借屋の竈数が26もあり,富裕な住民が必ずしも多くなかったことを物語る。もと蠣久(かきひさ)天満宮社司の右近刑部は,慶長年間に鍋島直茂が蠣久村の町民を佐賀に移して佐賀城下町建設をしたとき,町小路都合支配を命じられ,当町で旅人宿を営んで他領の人の監視にあたったという(葉隠)。嘉永7年の竈帳をみると,西端から16軒目に御用菓子屋の横尾市郎右衛門(一書には定右衛門)がいるが,彼は白山(しらやま)町の香月八郎に菓子「丸ボーロ」の製法を伝えた人である(北島の沿革)。嘉永7年の竈数を宗派別に示すと,禅宗32・一向宗17・浄土宗15・法華宗7である。寺院は北部の多布施川を挟んで向側に知恩院末寺の浄土宗大覚寺がある。慶長11年の創建で,境内の1反4畝2歩は免地。寺宝としては江戸初期の仏画である山越阿弥陀と浄土曼荼羅の2幅と末代念仏授手印(授手印)がある。授手印も江戸初期のものである。町名の由来ともなった伊勢神社は,慶長8年鍋島直茂が蠣久村から勧請したものである(浄土宗由緒・佐賀市の文化財)。「旧高旧領」では高18石余とある。「明治7年取調帳」では枝町に岸川町がある。「明治11年戸口帳」によれば,戸数187・人口773。明治22年佐賀市に所属。昭和45年佐賀市伊勢町となる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7215964