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宇野御厨
【うののみくりや】


旧国名:肥前

(古代~中世)平安中期~室町期に見える御厨名。松浦郡のうち。長崎県平戸周辺から伊万里(いまり)湾におよぶ広大な地域を占め,中世松浦党の根拠地となった荘園。現在,長崎県松浦市に御厨町とあるのは,その名残と推測される。あるいは同地付近が当御厨の中心であったか。御厨は元来,海岸付近に見られ,古代・中世において朝廷に対する供膳・供祭などの魚介類を献納する贄所で,皇室領荘園の一形態である。宇野御厨は,はじめ松浦郡全体に広がっていたが,保延の頃,東松浦郡の地域に御厨の別符が立てられ,新たに松浦荘が成立する。御厨の初見は寛治3年6月7日付の散位藤原頼行下文案(東南院文書/平遺1272)。同下文によれば,この年松永法師なる者が,筑前国上座郡の観世音寺領杷岐荘(現福岡県朝倉郡杷木町)を,先祖贄人源順相伝の所領であり,御厨領であるとして押妨,これに対し,観世音寺(現福岡県筑紫郡太宰府町にある天台宗の寺。日本三戒壇の1つ)側の訴えによって,6月7日,宇野御厨別当散位藤原頼行は「下 松永法師 可早停止号御厨御領所観世音寺永代御領地押妨事」として法師の押妨を停止させている。また,同年8月17日付の筑前国観世音寺三綱解案にも「宇野御厨別当」の名が見え(東南院文書/平遺1275),康和4年8月29日には「宇野御厨野検校散位」(松浦党党祖源久)の三男源勝への譲状も見える(石志文書/平戸松浦家資料)。中世においても,「宇野御厨」の名は「伊万里文書」や「松浦山代家文書」に多く散見され,建久3年6月2日の前右大将家(源頼朝)政所下文に,「前右大将家政所下,肥前国宇野御厨内山代浦住人等,可早以字源六郎囲為地頭職事」と見えるのをはじめ(松浦山代家文書/鎌遺593),文永6年7月20日付の源留から源勝への譲状案に「在ひせんのくにうのの御くりやの御しやうのうち」とあって,「伊万里」「梶水里」「長野里」「波多道里」「岐須里」「山口里」「加志田里」「北里」「南里」「東里」「高松」「船津」「堂薗」「横野」「わきた」など伊万里地方の地名が認められる(伊万里文書/平戸松浦家資料)。その後,正応5年8月16日付の肥前国荘公造河上宮用途支配惣田数注文には「庄園分」として「宇野御厨庄三百丁」と記されている(河上神社文書/佐史集成1)。以後,南北朝・室町期にかけても「宇野御厨」の名は地域称として存続,応永29年5月13日付の道機等連署押書状に「肥前国宇野御厨庄下松浦五嶋西浦目之内,鵰下尾礼嶋両嶋事」と見える(青方文書/伊万里市史続)。当御厨は松浦党の根拠地であるが,同党は大きく分けて,松浦荘を根拠とする党と,御厨を中心とする党との二様の党的結合が見られた。永徳4年2月23日付松浦党一揆契諾状には,大一揆として御厨の下松浦の諸家が,公私において一味同心の思を成す,土民百姓等の逃散に対して相互に扶持しない,下人が主人を捨ておいて他村に居住した場合,それを相互に扶持することを禁ずる,所務や境相論が起こった場合,「一揆中寄合」い両方の文書を披見し,「理非」に任せて決着をつける,などの領主間協約を結んでいる。この松浦党の一族一揆には御厨氏・山代氏・伊万里氏など御厨の領域内の在地小領主名が見えるが,南北朝期から室町期にかけての松浦党の弱小武士団の活発な動きのなかで,宇野御厨は実質的に解体していった。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7216113