100辞書・辞典一括検索

JLogos

12

大戸ケ里村
【おおとがりむら】


旧国名:肥前

(近世)江戸期の村名。小城(おぎ)郡のうち。牛津(うしづ)川の支流晴気川東岸の平坦地に位置する。小城藩領。西郷に属す。村高は「正保国絵図」「天明村々目録」ともに264石余,「天保郷帳」では275石余。文化11年の小城郡里郷之図では「大戸刈」とあり,35町9反3畝,212石9斗1升9合と付記し,壱ノ井樋筋掛の村である。江戸後期の小城郡西郷図によれば典型的な環濠集落をなし,中央に天満宮と観音を記す。牛津新町から北上した多久道が西部を通り,晴気川沿いに北上する。中央北部に臨済宗南禅寺派久昌山円長寺があり,円長寺9代住職の祖慶は,旱魃に悩む大戸ケ里・満江(みちえ)・江津ケ里の農民救済のため,寛政年間頃円長寺井樋を勝川に築造したという。祖慶は井樋築造に私費を投じ,さらに借財をして完成させたが,返済の目途がたたず,責任を負って寺を退き,寛政9年突然没した。藩主は田1反歩を永代供養料として与えた。祖慶の墓は円長寺境内にある。「郷村区別帳」では船田刈の枝村として見える。「明治11年戸口帳」によれば,勝ケ里のうちに「大戸ケ里」と見え,戸数16・人口92。なお,「小城郡村誌」によれば,明治4年勝ケ里・満江・江津ケ里・高柳ケ里の4か村と合併して勝ケ里となったという。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7216275