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大野原村
【おおのはらむら】


旧国名:肥前

(近世)江戸期の村名。藤津郡のうち。塩田(しおた)川支流岩屋川内川の源の高原地帯。地名は広大な高原を示すかと思われる。佐賀本藩領。嬉野(うれしの)郷に属す。「宝暦郷村帳」「天明郷村帳」とも岩屋川内村の枝村として見える。「旧高旧領」には村名が見え,村高380石余。なお万延元年の郷村帳には枝村に大多婦(おおたぶ)村の名が見える。元禄5年に氏神一宮神社を勧請しており,当村の開拓は同年までにはすでに着手されていたと思われる。地内につながる草原は佐賀・大村両藩の入会草刈地で,境界が不分明のためたびたび紛争を起こしていたが,天明4年の大紛争では長崎奉行所の仲介により佐賀藩28.5%・大村領71.5%の割で解決し藩境塚が築かれた(泰国院様御年譜地取)。大村との藩境に百貫(ひやつかん)の地名があるが,両藩が藩境紛争を起こした時に,所属を争った巨石である百貫石の伝説により生じた地名と思われる。また旱魃の時千綿(ちわた)(大村領)の海岸から海水を汲み,氏神の一宮神社にそれを献上すると降雨があるという伝説もある。当地は雨量は多いが草原のため旱魃がひどく,天明の頃牟田溜池が築かれたが,開墾は失敗した。弘化3年の村絵図によれば,村の南西方面の山中に堤が見え,その北側は石積みして堰止められ中央に水の流出口が設けられている。藩の奨励もあり炭焼きを主としていたが,後には茶を栽培。弘化4年には佐賀藩領長崎深堀(ふかぼり)から20戸が移住してきたが,キリスト教徒のため村民と相容れず明治初年に引き揚げた(嬉野吉田郷土誌)。幕末には前田津加衛が寺子屋を開いた。なお当村は縄文時代の遺物散布遺跡で,石鏃や石匙・石斧類が出土したが,地元に保管されているのはごく一部である。「明治7年取調帳」によれば,岩屋川内村の枝村として見える。「明治11年戸口帳」によると岩屋川内村のうちに「大野原村」と見え,戸数84・人口394。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
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