100辞書・辞典一括検索

JLogos

15

小川内村
【おがわちむら】


旧国名:肥前

(近世)江戸期の村名。神埼(かんざき)郡のうち。小河内とも書き(天明郷村帳),西小川内村ともいう(天明村々目録・天保郷帳)。背振山東面の山間部に位置し,北は筑前国,東は那珂(なか)川を隔てて五ケ山を望み,西に蛤岳がある。佐賀本藩領。上東郷に属す。天保9年の蔵入地米高は24石余(御蔵入地米郷村附)。背振山中宮五戒坊の寺領地米17石余(承応2年勝茂様御印村付写帳)。村高は「天明村々目録」で23石余,「天保郷帳」では31石余,「旧高旧領」には見えない。天保期の戸数24(御祓配帳)。嘉永期の戸数26,人口は男68・女58の計126(嘉永6年竈帳)。筑前との国境に位置し,平時は農林業に従事する足半(あしなか)侍が国境守備の役割を果たしていた。その名残に12月5日の村祭では,男子の数だけの木刀をつくり戦勝祈願と称して筑前側に刃を向けて立てる習俗が残っていた。竹屋敷は獄屋敷ともいい,背振山座主の別宅があったと伝えられる。寺社に天台宗医王山東光寺・山祇神社・八大竜王・香椎聖母宮がある。東光寺は元禄4年流行病が発生し,東福院東光寺の長賀が薬師如来を安置して祈願したと伝えられる(東脊振村70年史)。耕地が少なく林野経営が主で,物産には木材・木炭・生糸・茶・サンショウ・ゼンマイ・シイタケ・クリなどがある。元和年間,成富兵庫茂安が田手川の水量不足を補うため蛤岳に水路を築き,大野川から筑前に落ちる水を引き蛤水道をつくった。そのため筑前側は水不足に苦しみ,お万ケ滝・稚児落しの悲しい伝説が生まれた。「明治7年取調帳」「郷村区別帳」では松隈(まつぐま)村の枝村として見える。「明治11年戸口帳」によれば,松隈村のうちに「小河内村」と見え,戸数29・人口142。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7216326