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小城郡
【おぎぐん】


旧国名:肥前

古代~近代の郡名。「肥前国風土記」「和名抄」にみえ,「和名抄」では乎岐と訓じる。郡名の由来は,「肥前国風土記」にあるように土蜘蛛(つちぐも)が堡(おき)を造って皇命に従わなかったことから小城(おき)と名づけられたという。北部および西部は山地で,東南に向かって佐賀平野が開け,北部の山地から祇園川・牛津江(うしづえ)川・晴気(はるけ)川が南流している。北と西は天山(てんざん)(1,046m)・彦岳(845m)の山地で松浦郡と接し,東は佐賀郡,南は杵島(きしま)郡と接する。現在では,東部は小城町・三日月(みかつき)町を境に大和(やまと)町・佐賀市と接し,西部は多久(たく)市域を境に厳木(きゆうらぎ)町・武雄(たけお)市に接する。南は多久市域を境に北方(きたがた)町・大町町・江北(こうほく)町と接し,芦刈(あしかり)町を境に福富(ふくどみ)町と接する。昭和31年までは北隣の富士町域も小城郡であった。以後東西18km・南北28kmに及ぶ地域であったが,現在では多久市97.16km(^2)を別にすると郡域は95.08km(^2)。多久地方には先土器時代の遺跡が残り,平野部には弥生時代の水田遺構がみられる。山麓部には奈良期に官道が通り,平野部には条里制の遺称として条名や坪名が数多く残っている。
(古代)「和名抄」には,小城(乎岐,国府)とあるところから国府の所在とも考えられるが,国府は佐賀郡にあるので誤記であろう。
(中世)正応5年8月16日の河上宮造営用途支配惣田数注文には「赤自庄 二十三丁三反三丈」とあり,中世を通じてほぼ田数の固定化されたことが知られる。
(近世)江戸期の当郡は佐賀藩領となり,元和3年鍋島元茂が分家して支藩としての小城藩が成立するとその所領の大部分が当郡に設けられた。
(近代)明治11年郡区町村編制法によって改めて行政区画として発足。




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「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7216330