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小城藩
【おぎはん】


旧国名:肥前

(近世)江戸期の藩名。外様大名。無城格。柳間詰。元和3年,鍋島勝茂の長男元茂が,祖父である直茂の隠居領を中心に分知された。以後幕末まで直能―元武―元延―直英―直員―直愈―直知―直堯―直亮―直虎と11代260年間領有。寛永5年元茂の知行高は5万7,452石(惣着到)であるが,明暦2年直能の知行高は7万3,252石余,物成2万9,301石(泰盛院様御印着到)とあり,幕末まで藩の正式表示の知行高となる。支配領域は小城郡,佐賀郡,松浦郡伊万里(いまり)地方にわたる。嘉永6年写の「大小配分石高帳」によると,佐保川島郷18か村・地米3,603石余,三ケ月郷16か村・地米3,393石余,西(さい)郷10か村・地米2,195石余,東(とう)郷9か村・地米1,917石余,五百町(いおまち)郷17か村・地米3,481石余,北(ほく)郷15か村・地米2,365石余,平吉郷18か村・地米5,458石余,南(なん)郷7か村・地米1,771石余,山内郷20か村・地米3,115石余,山代郷14か村・地米1,995石余と見え,総村数144か村・総地米高2万9,297石余。藩は蓮池(はすのいけ)・鹿島各藩とともに支藩扱いをうけ,自治権は持つが,佐賀本藩の支配権に拘束され,石高も佐賀本藩の35万7,000石余の内高で,小城藩主は本藩の分限帳(着到)に本藩主の家臣として名を連ねる。なお,幕府からは大名扱いされ,参勤交代・公役などを命ぜられる。初代藩主の元茂は,佐賀城西の丸に居住し,家臣は本藩家臣とともに佐賀城下に居住。2代直能の時代の延宝年間より小城への移住を開始。3代元武は元禄3年に桜岡の北に藩邸を造営。元武には宝永4年将軍綱吉から遠州浜松への国替えの沙汰があったが,柳沢吉保の諫言で沙汰止みとなる。9代直堯は,文化・文政・天保年間に蓮池支藩主直与と城主格昇進願を本藩主に提出。本藩は,他国の本支藩とは別格とし,却下。直堯は7代直愈の天明7年開校という藩校興譲館の衰退を慨し,天保末年に文武興隆の議を起こし,諸制度を改革。安政元年幕府は長崎警固のため,10代直亮に5年間の参勤猶予を許可し,同5年には引き続き5年間の参府期間短縮を許可。戊辰戦争では秋田方面に出兵。家臣は親類・家老・番頭・馬乗士・平士・副士・足軽に大別され,石高別では300石以上5人,150~299石5人,100~149石9人,50~99石40人,40~49石24人,39石以下504人がいた(小城着到)。元和7年家中を4分し,四組頭と名づけ(元茂公御年譜),のち8組に改編,天保2年からは5組に再編。嘉永5年の三家御親類同格家来人数付では武士の総勢701人。上級家臣団の6人は直組と称する私家来をもち,藩士には被官がついた。なお被官は在郷し農耕に従事した。藩主の補佐役は当役(頭役)と呼び,行政機関の中心には請役所・御蔵方・御目付方・寺社方・御出陣方・御修理方・御厩方がある。地方行政機関の元締は郡代・代官所・御普請方であり,郷村行政機関には目代・御山方・御猟方がある。司法機関には評定所,立法機関には仕組所があり,ほかに内官として小物成方・掛硯方・御納戸方を設ける。藩財政収支目安を天和元年の直能公御年譜附録でみると,定米1万6,909石7斗3升,落米4,020石1斗2升,有米1万3,634石3升,家中出米672石2斗5升,合米1万4,310石2斗8升,内3,922石9斗3升,諸切米へ出る。そのほか米御遣方引,残米代銀481貫640匁6分,このうち銀33貫御台所用,銀322貫江戸上銀,銀95貫120匁諸御遣方,銀16貫596匁西丸岡修理井樋使者飛脚,合銀468貫870匁,残銀12貫769匁9分と見え,物成から家臣の知行取・上落米・切米を除いた約1万石が,藩の基本財源であることがわかる。年貢米は牛津・浜崎の米蔵より大坂へ回米し,銀に換える。藩財政は草創期より困難で,参勤交代・公役を勤めるたびに,本藩の援助を仰いだ。山内・佐保川島・北・西・平吉・山代の6郷には大庄屋を置き,その配下に大散使や庄屋を置く。郷村支配のため天保2年に郷内諸法度を発布。藩内の人口は元禄12年の御領中有人改人数によると,男2万69人,女1万2,283人の合計3万2,352人で,幕末まで大きな変動は見られない(小城町史)。刑罰については,天和2年より安政2年まで22冊の罰帳がある。産業としては製紙が盛んである。高札場は岡町・牛津本町・中極町に置かれた(御領中郷村附)。南端の平吉郷は干拓が盛んである。明治4年小城県となる。




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「角川日本地名大辞典」
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