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上石動村
【かみいしなりむら】


旧国名:肥前

(近世)江戸期の村名。神埼(かんざき)郡のうち。「かみいしない」ともいう(肥前国郡村仮名附帳写)。田手川(石動川)上流域の左岸,背振山地の南麓に位置し南に下石動村がある。地名の由来は,鎮西山に狼煙台を築くため石を運び,すっかりなくなったので「いしない」と呼ぶようになったと伝えられ,また,大水のときに川原の石が響きをたてて流れることによるともいう(続脊振山麓の民俗)。佐賀本藩領。上東郷に属す。給人・地米高は,「玄梁院様配分帳」では執行与惣右衛門100石,「大小配分石高帳」では白石鍋島家鍋島山城242石余・執行権之助100石・広木八郎右衛門19石余。村高は,「正保国絵図」「天明村々目録」では378石余,「天保郷帳」では423石余,「旧高旧領」には見えない。天保期の戸数は蔵入地37・知行地26(御祓配帳)。神社に天満宮がある。寺院には坂本村修学院の破壊寺として玉殿寺,背振山中宮五戒坊東福院の破壊寺として竹林寺・東光寺があった(天台宗由緒)。修験に一乗院があり,もと木原村の山王社にあったが,鍋島山城の祈願を勤めるため転院したという(当山派山伏由緒)。干股井堰は上石動村・下石動村・大曲(おおまがり)村・横田村の用水であるが,下流域の大曲村・横田村は水利が悪かったため,享保16年の大旱魃には,目付役見分のうえ,8日に5つ時(約10時間)ずつ横田村内の瀬尾ケ里の田地へ引き入れ,その間は上石動・下石動村では脇水の水道口を止め,坂本川・永山川両所の井手をはずして干股井堰の水を増すよう定められた。文政元年銘の通称水引地蔵は,旱魃の年の水争いの犠牲者の霊を慰めるために建立したと伝えられる(東脊振村70年史)。草山は鎮西山北部にあり,山入り道筋をめぐって宝暦6年に争いが発生,藩の裁定により坦金堂(たごんどう)筋よりと定められた(上峰村史)。上西郷志波屋村北方の大高山も入会地(神埼町史)。物産に櫨実・菜油・蝋・素麺・薪などがある。また,水稲は石動米と呼ばれ品質良好で,蔵米として重視されたという。幕末から明治にかけて納富六郎助が私塾を開いていた(県教育50年史)。「明治7年取調帳」「郷村区別帳」では石動村の枝村として見える。「明治11年戸口帳」によれば,石動村のうちに「上石動村」と見え,戸数68・人口340。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7216505