神埼郡
【かんざきぐん】

旧国名:肥前
古代~近代の郡名。「肥前国風土記」「和名抄」にみえ,「和名抄」では「加無佐岐」と訓じている。郡名の由来は,「肥前国風土記」に景行天皇の伝説を引き,先住の荒ぶる神を天皇が平定したとするが,完全な地名の説明にはなっていない。東部は三根(みね)郡に接し,北は背振山(1,055m)から三瀬(みつせ)峠(583m)に至る背振山地を境に筑前国と接し,西部は佐賀郡,南部は佐賀郡および筑後川を隔てて筑後国と接する。現在は神埼・千代田・三田川の3町と東脊振(ひがしせふり)・脊振・三瀬の3村からなり,東西は約12km,南北は約28km,面積176.44km(^2)(うち水田4,750ha・畑759ha・山林3,293ha),人口4万7,288人・世帯数1万1,145戸(昭和50年国勢調査)。背振山地の山麓一帯には縄文・弥生時代遺跡が多く,とくに弥生時代の代表的なものは東脊振村の三津永田遺跡であり,古墳時代で注目されるものは神埼町志波屋にある古墳時代後期の大規模な前方後円墳伊勢塚で,壁画系統の装飾古墳である。この山麓地帯には古代の官道が通り,その南部に展開する平野部には条里制の遺構が多く残る。奈良期には駅馬の制なども整備され,官道も南へ移り,現在の神埼町付近を通るようになった。
(古代)「肥前国風土記」には9郷・26里・1駅・1烽・1寺とみえるが,郷は三根・船帆【ふなほ】・蒲田【かまた】・宮処【みやこ】の4郷についてしか記載がない。
(中世)鎌倉期における神崎荘は,平氏政権の支配から次第に源氏政権の支配下に移り,領家は後白河院・後嵯峨院・後深草院と移ったが,現地荘官として武家が地頭となっていた。
(近世)江戸期は佐賀藩領となり,寛永16年に鍋島勝茂の三男直澄が分家して支藩としての蓮池藩が成立すると,当郡に蓮池藩領も混在するようになった。
(近代)明治11年郡区町村編制法の施行によって改めて発足。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7216643 |