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基肄郡
【きいぐん】


旧国名:肥前

古代~明治29年の郡名。「きぐん」ともいう。郡域は現在の三養基(みやき)郡基山町全域と鳥栖市成立前の田代町・基里村を合わせた地域に当たる。「肥前国風土記」「和名抄」に郡名がみえ,「和名抄」では「木伊」と訓じている。郡名の由来は,景行天皇が筑紫国御井郡高羅山(久留米市高良山)から当地方を見て,霧におおわれていたところから「霧(きり)の国」と呼んだことにちなむという。近代以前においては,北は筑前国御笠郡,東から南にかけては筑後国御原郡・御井郡,西と南は養父(やぶ)郡に接する。北部は背振山地東部の山地,南部には筑後川の諸支流が流れ,それらの小河川によって形成された沖積平野が開ける。この中間部は北部の山地につながる洪積丘陵をなす。
(古代)「肥前国風土記」には郷6所・駅1所・城1所とあるが,郷名は姫社【ひめこそ】郷をあげるのみである。
(中世)文治3年5月9日源頼朝下文案(曽根崎文書/大分県史料9)によれば「肥前国基肄郡内曽禰崎并堺別符行武名地頭職」をめぐって備後権守高経と平通隆との間に相論があり,頼朝は「抑此所々為平家領之由,載通隆之証文,然者擬没官,可令進止」として通隆の地頭職の知行を安堵している。
(近世)江戸期の当郡は,慶長2年幕府領となり,同4年養父郡の北半分とともに対馬藩の宗義智に与えられ,以後対馬藩田代領と呼ばれた。
(近代)明治11年郡区町村編制法によって改めて発足。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7216658