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岸川町
【きしかわまち】


旧国名:肥前

(近世~近代)江戸期~昭和45年の町名。江戸期は佐賀城下の1町。寛政元年の幕府巡見使への報告に見える城下三十三町の1つ。佐賀城の北西に位置し,北は十間堀川に面する。東は多布施(たふせ)川に架かる開運橋を境に多布施町と接し,町筋は開運橋から西に延び,蓮生寺の前で南に左折し,さらに西に右折して再び西に進み,また南に左折して南行し駄賃町の東端に達する。町の長さは154間4尺5寸。竈数は,承応3年佐賀城廻之絵図では78,元文5年屋敷帳では75。嘉永7年岸川町竈帳の総竈数89(明家7),人数358(男180・女178),身分別竈数は侍2・手明鑓2・家来1・徒士4・中小姓2・足軽10・被官12・町人49,とくに多い職種の竈数は日傭取20・大工5・手男5。このうちには抱借屋13・割借屋10があり,日傭取が多いことからも,当町の住民の生活は必ずしも豊かではなかったであろう。嘉永6年,藩は当町の東端,多布施川畔に「公儀御用石火矢鋳立所」という反射炉を築いた。幕府の注文に応じて近代的製鉄技術でアームストロング砲などの鉄製大砲を鋳造したのである。明治の初めころまでは多布施川より引いた水路や水車小屋・作業場が残っていたといわれる(佐賀市の文化財)。嘉永7年の宗派別竈数は,禅宗34・浄土宗18・一向宗18・法華宗4・真言宗1。寺院に,一向宗蓮生寺,浄土宗正定寺末寺の大運寺,町裏に法華宗妙覚寺がある。蓮生寺は慶長年間の創建で,開基は行善。初めは佐賀郡高岸村に建てられたが,水火の災害に遭い,寛永10年当地に移建された。大運寺は慶長15年の創建で,開山は寂誉。寂誉はもと鍋島直茂の家臣であったが,朝鮮出兵後,筑後善導寺で出家し,佐賀郡南里村の正定寺住職のころ当寺を建立した。その隣地には同宗の不断院や極楽堂などの寺院があったが,極楽堂は享保18年の焼失後再建されず,不断院もやがて無住となって大運寺の管理下におかれた。妙覚寺は創建年代不明であるが,寛延2年12月,会所に祠堂銀650匁を納めたというから寛延以前の建立であることは明らかである。「旧高旧領」では高10石余とある。「明治7年取調帳」では伊勢屋町の枝町として見え,明治初期には伊勢屋町に編入されたこともあった。明治15年の戸数99・人口420,うち男211・女209(共武政表)。同22年佐賀市に所属。昭和20年町内の妙覚寺が火災に遭った。同45年佐賀市伊勢町となる。




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「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7216673