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杵島郡
【きしまぐん】


旧国名:肥前

古代~近代の郡名。「島」は「嶋」も当てる。「肥前国風土記」「和名抄」にみえ,「和名抄」では「岐志万」と訓じている。郡名の由来は景行天皇にまつわる伝説により,船の(かし)あるいは嶋の郡と名づけられたという。近代以前においては,北は佐留志(さるし)・小田・大町・北方(きたがた)地方を境にして小城(おぎ)郡と接し,東は有明海,南は藤津郡,西北は黒髪山・青螺(せいら)山(599m)および中通・武内地方を境に松浦郡と接し,西南は神六山(447m)の山地を境に彼杵(そのき)郡(長崎県)とわずかに接している。東部は白石(しろいし)平野とも呼ばれる平坦地で,六角川の流域に水田が開け,穀倉地帯をなす。有明海の平均潮位面は2.89mで,白石平野の3mの等高線は平安中期から鎌倉期にかけての自然陸化地帯である。この有明海に面した白石平野は古くから干拓が進められた。西北部はほとんどが山地をなし,大小の堤を築いて灌漑に供し,また陶業が盛んである。長崎街道は東から西へ佐留志・小田・北方を通り,武雄(たけお)で南へ藤津郡嬉野地方へ行く道と松浦郡有田地方への道とに分かれる。遺跡には先土器時代のサヌカイトの産地として有名な大町町鬼ノ鼻山,武雄(たけお)市の柏岳がある。六角川上流の右岸には弥生遺跡が散在し,同じ場所に古墳時代の遺跡,やや東方の六角川中流域に条里制の遺構がみえる。郡域は現在の武雄市と杵島郡の地にあたり,古来は東西6里(24km),南北4里(16km)といわれたが,現在の面積は武雄市の128.96km(^2)を除くと196.61km(^2)。現在は山内(やまうち)町・江北(こうほく)町・大町町・北方町・白石町・有明町・福富(ふくどみ)町の7町からなる。水田面積8,078haは,県下各郡中で最大。現在の世帯数と人口は,武雄市8,574世帯・3万4,250人および郡部1万7,138世帯・6万9,419人である。
(古代)「肥前国風土記」には,4郷・13里・1駅をあげるが,郷名については,「和名抄」に多駄(大陀)・杵島(木之万)・能伊(乃意)・島見(志万美)の4郷名をあげている。
(中世)現在の武雄市と杵島郡の北部武雄盆地の地域に比定される長島荘は,長寛2年12月後白河上皇の発願によって造営された京都の蓮華王院領で立券の時期は不明。
(近世)江戸期は佐賀藩領で,寛永16年支藩の蓮池【はすのいけ】藩が成立すると当郡にも所領が置かれ,佐賀本藩領と蓮池藩領が混在した。
(近代)明治11年郡区町村編制法施行によって改めて発足。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
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