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北多良村
【きたたらむら】


旧国名:肥前

(近世)江戸期の村名。藤津郡のうち。「きただら」ともいう。多良(たら)川北岸部に位置し,多良岳の舌状台地が多数の尾根や谷をつくり,東の有明海に臨む。佐賀本藩領。鹿島郷に属す。「慶長国絵図」では多良村の名がみえるが,「正保国絵図」では多良村462石余・南多良村577石余に分村している。「天明村々目録」では当村462石余・南多良村577石余とあるから,「正保国絵図」での多良村は当村のことを指し,近世前期以降には多良村は南北に分村していたと考えられる。「天保郷帳」では村高536石余。ただし,「宝暦郷村帳」「天明郷村帳」「旧高旧領」では多良村として統一して記載されている。文化8年請役所達帳によれば,北多良村は羽高下・中古賀・大川内・涌嘉・郷式・河原・片峰・瀬戸・江岡・杉谷を含む。「玄梁院様配分帳」「大小配分石高帳」では諫早豊前が地米高494石余を知行する。鎮守は川上神社で,祭神の豊玉姫は別名「よど姫さん」と称し川の神様で,農民の信仰の中心であったとされる。またナマズは川の主で当神社祭神の乗物と信じられていたため,当地の人々はナマズを食べない(太良町史)。神殿の裏側に「五穀善神」の祠がある。これは多良岳金泉寺僧法印賢長銘のもので,刻文は,享保17年の大凶作や安永9年の田虫の害により苦しんだ農民たちが,後年五穀豊穣を願ったものである。当地の主な産物には木蝋・摺海老があった(文久2年諫早藩役所記録)。仏閣は三因和尚の建立で,本堂には極彩色の二十四孝を彫った欄間がある浄土真宗本願寺派修多羅山円教寺がある。当村には長崎脇街道が通っており,幕府や藩の役人をはじめ人々の往来も多かった。慶安2年の肥前一国道則帳には宿駅の1つとして当村の名が見える。「明治7年取調帳」には糸岐村の枝村として多良村が見える。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7216712