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京町
【きょうまち】


旧国名:肥前

(近世~近代)江戸期~現在の町名。江戸期は唐津(からつ)城下の1町。城下町の中央部に位置し,東は町田川に,西は紺屋町に接する。唐津築城時の総町十二か町の1町で内町のうち。町人地。町名は京都の町のように繁栄するようにとの願いからつけられたという。宝暦年間の絵図には当町南西端の町田口に面して山伏庵大泉坊が見える。文化年間頃の町筋は東西2町,古来本軒50,当時人数114(男62・女52),引合五人組30人(町年寄2・組頭2・御糀屋1・御用船問屋2・酒屋2・呉服屋1・薬店1),質屋があり,石船1(松浦拾風土記)。当町東端町田川には内町と外町を結ぶ江戸期唯一の札の辻ノ橋が架かり,木戸も設置されていた。木戸は午後9時に閉められた。辻橋の傍らには町奉行所があり高札場も設けられていた。天保7年町奉行所内に橘葉医学館が創設され,保利文亮(文溟)が守護となり医学を教授。天保年間頃には唐津藩の大坂御蔵元であった大根屋と長崎屋の御蔵元京町出張所が創設された。日野屋常安九右衛門は佐賀藩の御用商人で呼子(よぶこ)の中尾甚六と並んで捕鯨などで産をなした富豪。天明元年には太宰府天満宮へ赤銅の大鳥居を寄進。伊能忠敬は文化9年当町を訪れ日野屋を「大家」と記している(測量日記)。ところが天保年間頃には日野屋は豊後国日田隈町京屋小三郎から当町の家屋敷を抵当に多額の借財を負い,返済できないため木綿町の別宅へ移転した。また草場九兵衛は苗字帯刀御免の御用達,糀屋市太夫は2人扶持を支給された買積船問屋(演説書稿/唐津市史)。寛政11年は町火消し小牧支配組に所属(諸事控/唐津市史)。幕末の商人では町大年寄の糸屋草場家,平田屋草場家,薬屋舟越家,於釜屋岩下家が著名。明治元年の軒数64・人口191(唐津市史)。藩領最後の町年寄は草場清次右衛門(旧藩制ヨリ伊万里県マテノ諸控/県史)。「明治11年戸口帳」では唐津町のうちに「京町」と見え,戸数55・人口279。明治22年唐津町,昭和7年からは唐津市に所属。明治22年から昭和22年までは大字唐津のうち。明治30年の人口446(唐津市史)。明治5年頃橘葉医学館は廃止され,同7年松浦顕竜・中沢見作らが余課序を創設し,同9年頃東城内の耐恒寮に移転。その跡は病院となり,同9年佐賀病院分院唐津病院を経て同14年唐津公立病院となったが経営不振のため廃院となり,同24年から昭和46年までは唐津郵便局,同48年児童公園となり現在に至る。明治8年当町の曳山「珠取獅子」は13番曳山として富野淇淵(棋園)が製作。同29年「唐津新報」が発行された。同31年鉄道が開通し,当町は魚屋町と駅とを結ぶ地点に位置したため当時唐津一の繁華街・商店街として繁栄した。昭和期に魚屋町が衰微したのちも繁昌し現在に至る。大正4年の戸数80・人口327。世帯数・人口は,大正14年58・403,昭和5年56・377,同35年72・359,同41年63・282。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
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