100辞書・辞典一括検索

JLogos

14

木綿町
【きわたまち】


旧国名:肥前

(近世~近代)江戸期~現在の町名。江戸期は唐津(からつ)城下の1町。城下町の中央部に位置し,町田川下流左岸に東接し,町筋は南北に伸びる。唐津築城時の総町十二か町の1町で内町のうち。町人地。町名の由来は江戸初期に木綿業者が居住したことによるという。江戸後期には鍛冶屋が町内の半分を占め鍛冶町とも通称された。文化年間頃の町筋は南北1町25間,古来本軒38,当時人数141(男76・女65),引合五人組46人,うち町年寄2・組頭2・御用船鍛冶1・日雇頭1・畳師1・古来馬持1・新馬持1(松浦拾風土記)。鍛冶扱町人では牧原・脇山・石井・正田・大西家などが著名。牧原家は藩の御用鍛冶を勤め,また郡奉行からは手鎖・十手を預る町人で,褒美として例年青指(銭)1貫文を与えられていた(牧原家文書)。益田屋大西清兵衛は人馬継送の日雇頭として伝馬役を勤め,藩からは5俵2人扶持を給与されていた(末盧国澄載)。ほかに文化年間頃には畳師伊右衛門が見える(松浦拾風土記)。寛政11年当町ほか9町は,辻番所2か所と毎年10月から3月までの自身番の設置は負担が大きいので,辻番所1か所は夜番とし自身番も辻番所で兼ねたいと藩へ願い出ている。当時は町火消し小牧支配組に所属(諸事控/唐津市史)。唐津藩領最後の町年寄は牧原安右衛門・大西清兵衛(旧藩制ヨリ伊万里県マテノ諸控/県史)。昭和初期頃まで唐津名物として有名だった風呂敷饅頭は,当町南端の松尾家が江戸期に販売開始。唐津神社に合祀されている鳥居天満宮は明治中期まで当町に鎮座。明治元年の軒数50・人数197(唐津市史)。当町の曳山「信玄の兜」は同2年唐津町11番目の曳山として近藤藤兵衛が製作。「明治11年戸口帳」によれば,唐津町のうちに「木綿町」と見え,戸数44・人口207。明治22年唐津町,昭和7年からは唐津市に所属。明治22年から昭和22年までは大字唐津のうち。明治30年の人口405(唐津市史)。明治中期より歓楽街となる。明治から昭和初期まで中道屋は唐津一の料亭として繁昌。当町北端には明治中期から大正期まで魚市場があった。その隣に明治31年西海銀行が創立。その向い側に社交場「自由亭」が大正初期に開業。洋式建物でフランス料理を提供したが短期間で閉鎖され,昭和9年から37年まで商工会議所となる。大正4年の戸数76・人口321。世帯数・人口は,大正14年42・293,昭和5年40・286,同35年87・361,同41年81・307。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7216762