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楠ケ里村
【くすがりむら】


旧国名:肥前

(近世)江戸期の村名。小城(おぎ)郡のうち。久須ケ里とも書く。佐賀平野北西部,天山山地南麓にのびる舌状台地東部に位置する。小城藩領と佐賀本藩領。西郷に属す。「宝暦郷村帳」「天明郷村帳」ともに上久須ケ里・下久須ケ里と見え,「宝暦郷村帳」では上久須ケ里の小村に久保田村がある。村高は楠ケ里として,「正保国絵図」「天明村々目録」ともに745石余,「天保郷帳」では794石余,「旧高旧領」には見えない。なお,「正保国絵図」「天明村々目録」では久保田村は久保村と見え,176石余。給人・地米高は「玄梁院様配分帳」では太田生左衛門241石余,「大小配分石高帳」では鍋島播磨241石余。上久須ケ里は,鍋島弾右衛門の知行地(久保村・牧口村・野間村)と医王山三岳寺の寺領(三岳寺門前村・水洗村・一丁田村・下片田村)からなり,「宝暦郷村帳」「天明郷村帳」とともに三岳寺領村の名が見える。三岳寺は臨済宗南禅寺派で,徳川家康の側近であった晴気村円光寺出身の元佶三要を開山とし,鍋島直茂・勝茂によって建立された寺領100石の寺である。同寺の北方中隈には,諏訪神社・清浄院・善門院がある。当村の北部には西川宿があり,晴気川をはさんで東宿・西宿と分かれており,この往還を石木往還といった。東宿の東方の石切屋敷は,税免除地で石工棟梁武富清右衛門ほか10人の石工が居住した(御領中郷村附)。石切屋敷村の東には臨済宗南禅寺派慈雲寺があり,潮音道海(祥光山星巌寺開山)は同寺出身の高僧である。下久須ケ里村内には,武次村・小隈・橋ノ津村・普賢寺の地名が見え,武次村は,鍋島弾右衛門の知行地である(同前)。寺社には,鍋島帯刀茂貞を祀る松森神社,天満神社,浄土真宗法音寺がある。なお「小城郡村誌」によれば,明治4年池上ケ里(いけのうえがり)・右原・山崎村・小島村・牛尾村と合併して池上ケ里となる。「明治7年取調帳」「郷村区別帳」ともに,池上ケ里の枝村に上久須刈・久須刈・下久須刈の名が見える。「明治11年戸口帳」によれば,「久須ケ里」(136戸・545人),「下久須ケ里」(43戸・185人)と見える。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7216787