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倉谷村
【くらたにむら】


旧国名:肥前

(近世)江戸期の村名。神埼(かんざき)郡のうち。蔵谷山とも(慶長国絵図),倉谷山村ともいう。北西を仏ノ辻山,東を大高山に囲まれた山間の谷間に位置する。村名は景行天皇が西国平定の際,この地に倉庫を建てた故事に由来し,倉岡神社はその倉庫の跡に建立されたものであるという(脊振村誌)。佐賀本藩領。口山内(くちさんない)に属す。村高は「慶長国絵図」では132石余,「正保国絵図」「天明村々目録」ではともに84石余,「天保郷帳」では117石余。「旧高旧領」には見えない。「宝暦郷村帳」「天明郷村帳」ともに小村に白木村・政所(まんどころ)村がある。倉岡神社の祭神は素戔嗚尊・櫛稲田姫命。景行天皇がこの地に倉庫を置いたとき,西に大蛇が出て往来の人に危害を加えたため,天皇がこれを退治し,八岐のおろちの伝説にちなんで素戔嗚尊をまつり,倉岡社と呼んだという(脊振路)。同社は「県神社誌要」によれば,建保5年9月29日に神埼の櫛田神社より櫛稲田姫の分霊を合祀,社務は櫛田宮の神職牟田氏が代々兼任したという。櫛田宮は神崎荘の鎮守であるからこの地も中世には神崎荘に属していたと考えられる。曹洞宗宝光庵は,広滝の松林寺3代目の住職万国昌展和尚が元禄10年に開山(神埼郡郷土誌)。慶応2年の水害で,家屋全流13,同半流12,溺死者36,家畜溺死牛4・馬3を数えた(鍋島家内庫所記録)。干柿・葛粉の産地で,毎年藩主に献上した。「明治7年取調帳」「郷村区別帳」ではともに,広滝山村の枝村として見える。「明治11年戸口帳」によれば,広滝山のうちに「倉谷分」と見え,戸数66・人口324。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7216824