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黒髪神社
【くろかみじんじゃ】


杵島(きしま)郡山内(やまうち)町大字宮野(みやの)にある神社。旧県社。上宮に伊弉冉(いざなみ)命・速玉男(はやたまのお)命・事解男(ことさかのお)命を祀り,下宮も同じ3神を祀るとともに明治の神社合祀によって菅原道真以下6神を祀る。社伝によれば,伊弉諾命が黄泉国より逃げ帰る時に伊弉冉命の追手に対して投じた黒髪が高山と化して黒髪山となったといい,また後に伊弉冉命がこの山の岩上に来て遊んだのを里人が見て,天童の降臨と思いその岩を天童岩と名づけたという。また崇神天皇16年には,土地の長老が速玉・事解2神の夢告により伊弉冉命を主神にして,2神を配祀し,三所権現の名称を賜ったという(黒髪山本紀)。大同年中には田薗の寄進を得るとともに10月15日を祭礼日と定め,また霊亀元年には山麓の平原村の地に下宮を創建したとする。天暦5年2月11日の武雄社領四至実検状(武雄神社文書/佐史集成2)に見える杵島郡の五所には当社も含まれていたと考えられ,平治元年12月25日の大宰府庁下文(同上)にはじめてその名が見える。すでにこのころ武雄・黒髪と並称され郡内の有力社となり,上分田3町が与えられていた。正応5年8月16日の河上宮造営用途支配惣田数注文(河上神社文書/佐史集成1)には,「黒髪社三丁」と見える。当社社司は創始以来武雄社神主家伴氏が兼ね(元久元年4月22日武雄社本司藤原家門解状,武雄神社文書/佐史集成2),仁安3年2月13日の武雄社本司藤原貞門解状(武雄神社文書/佐史集成2)にも「武雄黒髪両所」は郡中五所社の第一の霊社であるとしている。元亨年間の武雄・黒髪両社大宮司頼門以後,黒髪社大宮司職としての武雄社司伴氏の名は見えなくなる(元亨2年5月武雄社大宮司藤原頼門代康門申状并具書案,武雄神社文書/佐史集成2)。以後の当社の動向は未詳となるが,明応10年1月に上宮が焼亡した(県災異誌)。社蔵の「黒髪山由緒記」によれば,当社下宮は阿弥陀堂・観音堂等を備えており,神宮寺である西光密寺(真言宗大覚寺派)がこれを運営していたという。また延宝3年の建立銘を持つ下宮鳥居には,もと当社は熊野の神を祀っていたとある。現在の伊弉冉命を中心とする祭神も,おそらくは中世から近世にかけて当社が熊野修験と習合するにおよんで唱えられたものであろう。近世には黒髪講が興隆し,講に参加するものは肥前国内広くにわたったといわれる。明治9年には黒髪山が焼けて仏像等が焼失,同11年にも中宮が火災に遭っている(県災異誌)。境内には正規の流鏑馬の馬場が残されている。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7216847