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小十官者村
【こじゅうくすむら】


旧国名:肥前

(近世)江戸期の村名。松浦郡のうち。小次郎官者村とも書く。東松浦半島上場台地の中央の丘陵地,大良(だいら)盆地の南部,大良川(大平川)上流の寺前川沿いで梨川内村の上流に位置する。はじめ唐津(からつ)藩領,慶安元年幕府領,同2年からは唐津藩領。馬部(まのはまり)組に属す。「慶長国絵図」では村名が見えない。元和検地帳,「正保国絵図」「松浦拾風土記」「松浦記集成」では小次郎官者村,明和年間絵図では小十官者村,「天保郷帳」ではこじゅうくす村,「旧高旧領」では小十官者村と見える。地名の由来は,「松浦記集成」によれば神功皇后が三韓から連れてきた3官者の1人で,陶器の製造を命じてその居所を村名としたとある。小次郎官者らが製造する陶器は古唐津焼と称され,三韓産土によって日本で製造する陶器を「火ばかり」という。また「松浦拾風土記」では,豊臣秀吉が高麗人の焼物師に日本名をつけ方々に焼物師の祖として配置し,その名を地名としたともある。しかし,「くす」は「くわす」の転化でと書き焼畑を意味するため疑問の余地がある。元和検地時は林又右衛門の知行地があった(東松浦郡史)。村高は,元和検地高42石余(唐津市史),「正保国絵図」では32石余,「天保郷帳」では51石余,「旧高旧領」では52石余。文化年間頃の田畑高44石余(古高33石余),畝数2町余,年貢率は5割4分5厘,家数11・人数47(男22・女25),馬4,牛9,威鉄砲1,氏神山ノ神無社の祭礼は9月18日(松浦拾風土記)。地内桃谷に戦国末期から江戸初期にかけて陶器を製造したと伝えられる古唐津の小十窯跡,島の木に小次郎官者の墓と称する五輪石塔がある。「明治7年取調帳」「郷村区別帳」ではともに切木(きりご)村の枝村と見える。「明治11年戸口帳」によれば戸数13・人口64。なお,「東松浦郡村誌」によれば梨川内(なしがわち)村のうちに含まれる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7216947