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呉服町
【ごふくまち】


旧国名:肥前

(近世~近代)江戸期~昭和44年の町名。佐賀城下の1町。寛政元年の幕府巡見使への報告に見える城下三十三町の1つ。佐賀城の北に位置する。北は元町に連なり,東は哂橋を境に蓮池町,西は小さな石橋を境に東魚町と接し,南は裏十間川を隔てて松原小路に対する。長崎街道が通り,北の元町から南北に走り,当町の中ほどで東に右折して哂橋を境に蓮池町へと至る。竈数は,承応3年佐賀城廻之絵図では61,元文5年屋敷帳では58。嘉永7年呉服町竈帳の総竈数81(明家3),人数390(男203・女187),身分別竈数は家来2・徒士4・中小姓2・足軽25・職人1・被官11・仲間1・その他の有姓者2・僧1・町人29,とくに多い職種の竈数は日傭取7。これによれば,身分別では町人・足軽・被官などが目立ち,職業別では荒物屋・日傭取などが多く,呉服屋は宿屋と同じく2である。元町とともに佐賀城下の中心であった。長崎街道を通る旅人が多く,また寛政末年からは長崎奉行の宿泊が頻繁になったので,哂橋の北西にあった新歩行野口恵助の私邸を本陣とした。100坪以上の屋敷で,柵と塀を巡らし,濡門が建てられ,地子銭が免除されていた(安政2年本陣絵図・泰国院様御年譜地取)。本陣跡の南西の四つ角には長崎街道の道標が現存して往時をしのばせる。道標のある町角から南の欄干橋の北西部の一角に幕末のころ100坪余の町方御蔵床があり,弘化4年町方役所が買い上げて市中の備米を貯蔵するに用いた(嘉永7年呉服町竈帳)。通りの北端寄りの西側の町並みの一角に銀判屋中元寺氏がいた。その座敷は289坪もあり,寛政元年の巡見使も,文化9年佐賀城下を測量した伊能忠敬も注目している(寛政巡見録・測量日記)。中元寺氏は,はじめ藩主のために武器の調達などに当たっていたが,のち金銀貨の鑑定や藩札との両替を営んだ(泰国院様御年譜地取)。西の東魚町に近い所に皆良田氏という新徒士で御用商人の酒屋がおり,嘉永4年には藩の懸硯方の金子を鍋島市佑などの武士に知行米を抵当に貸しつけている(納富鍋島家日記)。嘉永7年の竈数を宗派別に記すと,一向宗39・禅宗24・浄土宗10・法華宗6・天台宗1。寺院は東西の通りの東端,哂橋の南西部に一向宗光明寺,哂橋の手前,光明寺の東側の小川沿いに北へ100mほど行くと天台宗愛宕寺がある。光明寺は元禄9年の開基で,開山は宗光。もと嘉瀬郷深町村にあったのを移建したものである。幕末の12代住職良俊は佐賀の民謡「梅干」の作詩者として有名である。なお当寺には寛文年間以降の過去帳が残る。愛宕寺は京都竹ノ内御門跡曼珠院の末寺で,開基は不明。本尊は観世音如来で,寛延年間佐賀城二の丸護摩堂を開くにあたり,当寺の不動尊を移したといわれる。寺地3畝6歩は免地であった。現在は初代藩主鍋島勝茂が柳川の立花氏と戦った時勧請したといわれる愛宕社が中心になっていて,鳥居や八幡宮の社殿がある。今も火災転除の神として町内の信仰が篤い。愛宕寺の金堂は新しいが,元禄11年の青面金剛碑,文化9年の万部塔や常夜灯が現存している。「旧高旧領」では高24石余とある。「明治7年取調帳」では枝町に元町がある。「明治11年戸口帳」によれば,戸数150・人口631。明治22年佐賀市に所属。昭和44年佐賀市呉服元町となる。




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「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7216975