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米屋町
【こめやまち】


旧国名:肥前

(近世~近代)江戸期~現在の町名。江戸期は唐津(からつ)城下の1町。町田川左岸,城下町の中央部に位置し,東は呉服町,西は八百屋町と接する。唐津築城時の総町十二か町の1町で内町のうち。町人地。延宝年間絵図には紺屋5・米屋4・八百屋4・大工4・鍛冶屋4・酒屋1・酢屋1・医師1・寺2が見える。文化年間頃の町筋は南北1町23間,古来本軒36,当時人数88(男39・女49),引合五人組22人(御勝手御用達1・御酒屋兼持2・町年寄2・組頭2),糀屋・本勝寺・行因寺があった(松浦拾風土記)。両寺は名護屋六坊のうちで,真宗大谷派(松浦記集成)。酒造屋の古屋古館正右衛門家はすでに元禄年間に見え,御勝手御用達・町年寄を勤めていた。大工職高崎家・米屋吉村家・白土屋宮川家・豊後屋渡辺家・堤弥兵衛家・平田九右衛門家・河瀬家などは苗字御免であった。文化年間頃は大工棟梁与左衛門が見える(松浦拾風土記)。寛政11年当町ほか9町は,辻番所2か所と毎年10月から3月までの自身番設置の負担が大きいので,辻番所1か所は夜番とし自身番も辻番所で兼ねたいと藩へ願い出ている。当時は町火消し石崎支配組に所属(諸事控/唐津市史)。明治元年の軒数22・人数88(唐津市史)。同2年当町の曳山「酒呑童子と頼光の兜」は吉村藤右衛門が製作,12番曵山となる。唐津藩領最後の町年寄は古館正助・吉村文平治(旧藩制ヨリ伊万里県マテノ諸控/県史)。「明治11年戸口帳」によれば唐津町のうちに「米屋町」と見え,戸数35・人口165。明治22年唐津町,昭和7年からは唐津市に所属。明治22年から昭和22年までは大字唐津のうち。明治30年の人口141(唐津市史)。同31年鉄道が開通し唐津駅は当町の正面に設置されたが,当町東に並行する呉服町ににぎわいを奪われ,昭和になっても大きな変化はない。昭和20年家屋疎開により表町通りに面する家屋が解体され,道幅が広くなる。第2次大戦後唐津市街では初めて街路樹が植えられた。世帯数・人口は大正14年32・88,昭和5年29・176,同35年26・122,同41年28・108。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7216986