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紺屋町
【こんやまち】


旧国名:肥前

(近世~近代)江戸期~現在の町名。江戸期は佐賀城下の1町。寛政元年の幕府巡見使への報告に見える城下三十三町の1つ。佐賀城の東に位置し,東は東田代小路,北は牛島町に接し,西は紺屋川を挟んで材木町に対し,南は下佐賀江を挟んで下今宿町に接する。南北に通る2筋の家並みからなり,紺屋川に面する西側の通りを裏町といった。天保15年紺屋町絵図によれば,材木町との間に中の橋・一の橋の2つの橋が架けられ,東の東田代小路との間の小さな江にも4つの橋が架けられていた。竈数は,承応3年佐賀城廻之絵図では206,元文5年屋敷帳では175。嘉永7年紺屋町竈帳の総竈数247(明家7),人数1,114(男581・女533),身分別竈数は手明鑓4・家来1・徒士3・中小姓1・足軽45・職人3・被官33・仲間1・社人3・僧1・町人145,とくに多い職種の竈数は日傭取41・炭薪屋7・大工6・木挽き6・米屋5・川舟さし5・染屋1。これによれば,身分別には町人が最も多く,足軽・被官がこれに次ぐ。職業別には大工・木挽きが多いが,材木町に接しているからと思われる。町名に関係深いと思われる染屋はごく少ない。別当1人,咾(おとな)2人が任命され町政に当たった。藁屋根が多かったのと大工が多かったため火事が多く,享保9年閏4月6日から翌7日にかけて八幡小屋と紺屋町から出火して武士屋敷7か所,町家197軒,社3か所,土蔵10が焼けているが,このとき焼失した町家は当町の家がもっとも多かったと思われる(宗茂公御年譜)。天保15年紺屋町絵図によれば,北と南の木戸のそばに火番の小屋が設けられ,南の木戸から少し離れて火の見櫓がたてられていた。東側の通りには一向宗安楽寺,臨済宗無量寺がある。嘉永7年の宗派別竈数は,一向宗123・禅宗71・浄土宗30・法華宗13・真言宗1・不明4。「旧高旧領」では高42石余とある。「明治11年戸口帳」によれば,戸数317・人口1,214。明治22年佐賀市に所属。昭和9年東西貫通道路が町の北端を通じるようになった。同41年佐賀市下今宿町の一部を合併。同43年一部が佐賀市東佐賀町となる。




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「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7216996