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材木町
【ざいもくまち】


旧国名:肥前

(近世~近代)江戸期~現在の町名。江戸期は唐津(からつ)城下の1町。城下町東部に位置し,北は松浦川河口に面する。東は新堀町と接する。唐津築城時の総町十二か町の1町で外町のうち。町人地。町名の由来は材木屋が集住したことにちなむ。町の成立については,総町取立ての時は捨浜であったが,初代唐津藩主寺沢志摩守が天守台より町を眺めて城下に船着場がないことに気づき,当町の地に水堀を掘らせ,商人を取立てて諸役免許を与えたことに始まると伝える(松浦要略記)。文化年間頃の町筋は東西3町25間,ほか指丁南北50間ほど,古来本軒84,当時人数375(男193・女183),引合五人組118人(町年寄2・組頭2・御勝手御用達1・木挽棟梁1・酒屋2),当時馬持1,川船150(11艘は島原まで川札あり),山伏千手院がある(松浦拾風土記)。当町は材木・竹・薪・木炭の売買について特権が与えられており,当町の商人の手を経ずしては取引きできなかった。文化年間には御用材木屋伊兵衛,木挽棟梁定四郎がおり,材木問屋のなかには宮崎姓が3名いた。船着場は当町の北側につくられたため船持・船問屋・船宿も集まり,物資の集散でにぎわった。また,新堀とともに船大工の町でもあり,許可がなければ他所での造船は禁じられていた。そして,船大工のなかには棟梁や組頭となって,藩の御用を勤め,苗字を許された者が多い。船鍛冶も多く住んでいた。松浦川の橋は河口から川原橋までまったくなかったので,満島・新堀間の渡し船は公私ともに重要な役割を果たしていたが,その渡し船は当町の負担とされ,経費は当町で出し,水主は惣町で負担した。土井氏時代には当町のほぼ中央に御茶屋があった。同所は安政年間には仕法方役所が設けられ,のちに新成方役所となった。この西隣に満島稲荷があった。また,町田川川岸に千手院という山伏寺があった。寛政11年の町火消組は小牧支配組に所属(諸事控/唐津市史)。当町の曳山「亀に浦島」は天保12年須賀仲三郎が製作し,3番曳山。製作当初は浦島でなく宝珠が亀に乗っており,現存のものは大正時代に改造されたもの。明治元年の軒数92・人口391(唐津市史)。藩領最後の町年寄は平松儀右衛門・宮崎甚左衛門,定加役は木山八郎右衛門(旧藩制ヨリ伊万里県マテノ諸控/県史)。明治3年の材木屋株仲間の筆頭(株主支配)は当町の宮崎伊兵衛。「明治11年戸口帳」によれば,唐津町のうちに「材木町」と見え,109戸・416人。明治初期塩屋町を合併。明治22年唐津町,昭和7年からは唐津市に所属。明治22年から昭和22年までは大字唐津のうち。明治20年頃当町と大手前通りを結ぶ新大橋が町田川に架かり,また,同29年松浦川に松浦橋が架かり,当筋は唐津の表通りとしてにぎやかになった。同30年代に満島と大手前を結ぶ軌道車が当町を通り,さらににぎやかになった。明治中頃から唐津魚株式会社の市場が設置。昭和初期西唐津に移転したが,そのあとは青果市場となって現在に至る。また,明治末期東邦電力会社(九州電力の前身)の支店が開設。大正8年には市営公設市場も設置される。昭和9年地先を埋め立てる。大正4年の戸数204・人口1,020。世帯数・人口は,大正14年109・539,昭和5年196・933,昭和35年275・1,157,昭和41年266・947。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7217006