100辞書・辞典一括検索

JLogos

64

佐賀県
【さがけん】


(近代)明治4年7月14日~同年9月4日の県名。廃藩置県により旧藩名をもって成立。なお,支藩の蓮池(はすのいけ)・小城(おぎ)・鹿島領はそれぞれ県となり,当県には属さなかった。佐賀城内の旧藩庁を改めて県庁とする。肥前国旧藩々領地高並郡村名帳調によれば,高27万3,798石余,村数は杵島(きしま)郡50か村・藤津郡18か村・松浦郡36か村・佐賀郡92か村・神埼(かんざき)郡39か村・養父(やぶ)郡10か村・三根(みね)郡11か村・小城郡22か村・高来郡40か村・彼杵(そのき)郡6か村。「藩制一覧」には,高21万1,159石余・新田高51万3,580石の合計72万4,739石余,平均正租は現米21万3,348石余,但米4,441石代銀444貫100目,〆取納現米21万7,789石2斗7升2合。ほかに雑税金10両6合2勺,銭9万9,831貫651文とある。また,産物として素麺108万斤・米9万2,719石4斗・酒1万3,988石8斗・摺海老4,550斤・茶50万斤・蝋80万斤・石炭3,600万斤(但し塊粉とも)・陶器2万俵余があり,戸数6万8,710軒・人員35万4,450人(男18万3,517人・女17万933人),士族戸数5,273軒・人員2万3,823人(男1万2,072人・女1万1,751人),卒族戸数9,369軒・人員4万3,488人(男2万2,334人・女2万1,154人),社人戸数195軒・人員850人(男418人・女432人),僧1,032軒・人員4,412人(男3,190人・女1,222人)とある。明治4年9月4日,厳原(いずはら)県と合併して伊万里(いまり)県となる。(近代)明治5年5月29日~同9年4月18日の県名。明治4年9月に旧佐賀本藩領の佐賀県と旧対馬藩領の厳原(いずはら)県が合併して伊万里(いまり)県が成立し,同年11月には蓮池(はすのいけ)県・小城(おぎ)県・鹿島県・唐津(からつ)県も伊万里県に編入されるが,翌5年1月,旧佐賀藩領のうち諫早(いさはや)・神代(こうじろ)・伊古・西郷・深堀地方は長崎県に編入され,同年5月29日には伊万里県のうち肥前国の田代・浜崎地方を除く旧厳原県域(対馬国)が長崎県に編入し,残余をもって当県が成立。明治16年に再置されて現在まで続く佐賀県と同じ地域で構成される。成立に伴い県庁は伊万里円通寺より佐賀市街に移転。同9年4月18日,三潴(みずま)県に編入される。なお,三潴県は同年8月21日長崎県と福岡県に分割されて消滅し,佐賀県域は長崎県に所属することになる。(近代)明治16年5月9日~現在の県名。長崎県のうち佐賀・小城(おぎ)・神埼(かんざき)・基肄(きい)・養父(やぶ)・三根(みね)・杵島(きしま)・藤津・東松浦・西松浦の10郡が分離して成立。この背景には明治15年ごろより有志の間で佐賀県復県運動が活発になったことがあった。ただし,東松浦・藤津・杵島郡などでは長崎県からの分離復活に消極的であった。県庁ははじめ旧佐賀城下の北堀端にあった変則中学校の校舎があてられたが,明治20年に城内の現庁舎の位置に新築移転した。初代県令は司法省刑事局長鎌田景弼。明治16年の県政引渡演説書原稿によると,当時の10郡の戸数11万1,067・人口51万3,817。明治22年の市制町村制施行時には佐賀市と10郡3町133村。昭和55年現在では7市と8郡42町村で,面積約2,431km(^2)(東西76km・南北73km),世帯数23万1,630・人口86万2,133。平成12年現在では7市8郡42町村で,面積約2,431km(^2),世帯数284,506・人口88万3,511。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7217033