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佐賀藩
【さがはん】


旧国名:肥前

(近世)江戸期の藩名。外様大名。大広間詰。慶長12年竜造寺氏の領国を継承して鍋島氏の佐賀藩が成立(勝茂公譜考補)。鍋島氏は,すでに天正16年竜造寺政家が隠居した際に直茂が領国の実権を譲り受けており,また同年豊臣秀吉より長崎代官を命ぜられている。文禄・慶長の役では鍋島氏が佐賀軍を指揮した。関ケ原の戦では西軍についたが,のち陳謝し処罰は免れた。のち慶長12年竜造寺本家の断絶によって名実ともに鍋島氏の領主としての地位が確定したのである。藩主は直茂の子勝茂を初代として,以後光茂―綱茂―吉茂―宗茂―宗教―重茂―治茂―斉直―直正―直大の11代。所領高は,慶長16年の総検地で35万7,036石5斗9升9合を打ち出し,この石高を同18年に幕府が公認した。藩域は「正保国絵図」によると,養父(やぶ)郡13村,三根(みね)郡48村,神埼(かんざき)郡109村,佐賀郡172村,小城(おぎ)郡143村,杵島(きしま)郡114村,松浦郡31村,藤津郡79村,高来郡75村,彼杵(そのき)郡14村である。「寛文朱印留」によれば,佐賀郡一円172村・高10万2,779石余,神埼郡一円109村・4万9,335石余,小城郡一円144村・高4万6,409石余,杵島郡一円114村・高6万7,436石余,藤津郡一円79村・高3万750石余,三根郡一円48村・高2万4,335石余,養父郡のうち13村・高6,321石余,松浦郡のうち31村・高8,690石余,高来郡のうち74村・高1万8,869石余,彼杵郡のうち15村・高2,109石の計35万7,036石5斗9升9合。佐賀藩は,藩屏強化のため寛永19年までに小城・蓮池(はすのいけ)・鹿島の3支藩を漸次創設。支藩は一定度独立した領主権を有するが,幕府から朱印状を交付される独立支藩と異なり,佐賀本藩の内分支藩で,本藩の支配権に拘束される。したがって所領高は本藩35万石余の内に含まれ,本藩の着到(分限帳)でも家臣と同様に知行が配分される。ただし,幕府に対しては本藩とは別に参勤交代・普請役・御馳走役を負担した。藩の支配体制は,3家(小城・蓮池・鹿島の3支藩),親類(白石鍋島・村田鍋島・神代(くましろ)・村田の4家),家老(横岳・深堀・神代(こうじろ)・姉川・太田・倉町の6鍋島家),着座18家が中心で,ほかに独礼(どくれい)・平侍・手明鑓・徒士・足軽がいた。佐賀城は竜造寺氏の居城の村中城を拡張した城で,慶長16年に完成。物成(地米もほぼ同義語)は石高の3分の2で,年貢率は通常2公1民。家臣への知行配分高はしばしば地米高で表示された。寛永15年島原の乱の原城攻撃では戦功著しかったが,軍令違反により閉門を命ぜられる。同19年長崎御番の命を受け,福岡藩と隔年交代で任につく。慶安5年,佐賀藩法の基礎となる「鳥ノ子帳」が集成される。各郷に大庄屋,各村に小庄屋を置き,配分地には石方(こくがた)庄屋と点役(てんやく)庄屋を併置。寛永14年10人組から5人組に改編し,武士・町人・百姓混合の組編成をとる。武士と百姓・町人との中間身分層である被官と呼ばれる者が相当数存在するが,兵農分離の不徹底は,転封に会わなかったのが一因として考えられる(県の歴史)。「葉隠」は,光茂の病死で出家した山本神右衛門常朝の談話を,田代又左衛門陣基が宝永7年より7年間,黒土原(くろつちばる)の草庵に通って筆録したもの。有田(ありた)焼は藩特産で寛永5年に御用窯をつくり,延宝3年には大川内山(伊万里(いまり))に移され,技術が他所へ伝播することを警戒した。有田焼は江戸中期が全盛期で,幕末の天保6年伊万里港から積み出された陶磁器は4万6,000俵の旅陶器を加えて約31万俵にのぼり,日本全国のほか海外でも珍重される(県史中)。武士団の膨張,災害(飢饉・火災),諸負担(長崎警備・本支藩の普請役等),放漫財政などの諸要因により,初期から藩財政は困難を極めた。寛永末年に銀1万貫の負債,光茂時代の年間負債が平均10万両,文化元年の蔵入収入で銀1万252貫余(収入の44%)が借銀,文化11年の負債は銀3万1,000貫,米筈(米札)30万石,天保元年の負債銀1万1,439貫余,天保10年の負債13万両など多額の負債が累積した(県史中)。財政難の対応策として,①治水灌漑(成富兵庫茂安の工事など)と干拓(有明海・伊万里湾)による土地開発,②三部上地(慶長16年,元和7年)による蔵入地増加,③家臣の献金(御馳走米)による赤字補填策,④人別銀・講による収入増加策,⑤殖産と専売による益金増加策,⑥物成・小物成の増徴。支出抑制策として,①家臣の知行整理,②倹約と公役の回避。赤字財政再建策として,①大坂・江戸などでの借銀,②銀預・米筈などの藩札の発行があった(佐賀市史2)。治茂の藩政改革は,徒罪方の設置(天明3年)や蔵入地の大庄屋の廃止(享和元年)に始まり,明田(あきた)の解消と干拓による年貢増収策や,天明3年国産振興のための六府方(山・牧・陶器・搦(からみ)・貸付・講の各方)設置,借銀踏み倒し,藩営賭博の千人講,米筈の発行まで及んだ。さらに,天明元年藩校弘道館を建設し,多数の俊才を輩出した。文化5年のフェートン号事件以後長崎防備を強化。文政6年より3年間家中の知行・切米を藩が管理し,相続米渡りとする。文政11年,子の年の大風で,死者3,000人,倒壊・流失・焼失家屋は4万戸に及んだ。天保改革を断行した直正は中央集権化を推進し,西洋文化を輸入し,富国強兵の実をあげた。小物成は藩主手元の秘密会計の懸硯方におき,洋式軍事工業関係の費用に充てる。天保12年から開始の農地改革は,小作料減免,そののちの全蔵入地の小作料全免,そして,嘉永5年から御蔵入の小作地の上支配・分給に見られる様に,均田思想が根底にあった。弘化2年,国産方を設置し,煙硝・磁器・櫨・楮・海産物・石炭を領外に積極的に販売。嘉永7年代品方では石炭・白蝋・小麦・陶器の輸出で巨利を博し,懸硯方の収入は激増。なお幕末の尊王倒幕運動では直正は終始日和見的態度をとる。嘉永3年,枝吉神陽のもとで弘道館史学派と呼ばれた書生が尊王論を唱道して義祭同盟を結成。書生に江藤新平・大隈重信・大木喬任・副島種臣・島義勇らがいた。佐賀藩領の人口は延宝4年30万7,669人。以後貞享~文政年間は,享保大飢饉時の享保19年が29万2,118人のほかは,ほぼ35~36万人で推移し,弘化2年40万2,039人,元治元年43万4,764人,明治3年51万2,754人と増加(県の歴史)。幕末の藩行政機構には,請役所,御目付方,長崎御仕組方,御武具方,御船奉行,弘道館,御小物成所,御蔵方,勘定所,年行事,寺社方,町方,評定所,徒罪方,郡方がある(県史中)。「安政初年調御領中明細録」で本藩兵力をみると,真管藩兵として家老以下平士医師迄1,418人,手明鑓以下足軽迄4,560人,家老6人陪従者1,644人,着座侍平士陪従者8,429人の計1万6,051人。御三家全兵5,238人,御親類四家3,327人,御同格四家4,345人の計1万2,910人で,総兵力2万8,961人である。但し正規の武士は約半数。明治3年閏10月4日写の歳入歳出取調子書(県立図書館所蔵)によれば歳入(地米)は13万8,955石余で,その内訳は御定地米11万石,御借銀地地米1万3,793石余,搦方地米3,174石余,新御小物成地米6,155石余などとなっている。歳出については,明治庚午秋会計式法荒見渡(県立図書館蔵)によると,正税のうち10万6,289石を御家禄諸給禄諸団請負并諸扶持,大坂上米1万5,000石,軍用備1万5,000石,軍役料3,750石,神事局600石,学校1,500石,軍事局1万8,000石,郡政局2万石,評定所600石,医局600石に支出する予定である。同文書には「庚午御取納凡高115,000石ヨリ引残凡40,000石ヲ政府入費トス」と付記する。明治4年佐賀県となる。




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「角川日本地名大辞典」
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