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道祖元町
【さやのもとまち】


旧国名:肥前

(近世~近代)江戸期~現在の町名。江戸期は佐賀城下の1町。寛政元年の幕府巡見使への報告に見える城下三十三町の1つ。天祐寺川沿岸,佐賀城の西に位置し,城下の西の入口付近に存在した。町名は東部に道祖神社があることにちなむ。西は本庄町に接し,東ははじめは道祖神社前の橋までであったが,のちさらに東の神地(新地)近くまで延びた。町の長さは55間。竈数は,承応3年佐賀城廻之絵図では37,元文5年屋敷帳では55。嘉永7年道祖元町竈帳の総竈数105(明家18),人数421(男205・女216),身分別竈数は家来3・徒士3・足軽28・職人1・被官11・その他の有姓者5・僧1・町人35,とくに多い職種の竈数は大工5・日傭取4・木挽4。ほかに札馬士が2竈あるのは,すぐ北の長瀬町に馬立継所がある関係であろう。宗派別竈数は,禅宗38・一向宗21・法華宗9・浄土宗9・天台宗1である。寺院は北ならびの道祖神社の東隣に一向宗専修寺があり,周囲は小川で囲まれている。創建不明だが,開基は宗喜。境内には享保年間の常夜灯2基と明治15年佐賀県で最初の私立銀行を創設した本庄町の資産家伊丹文右衛門ほか伊丹一族の墓がある。「旧高旧領」では高256石余とある。「明治11年戸口帳」によれば,戸数145・人口614。明治22年佐賀市に所属。同26年4月,富商深川嘉一郎は,この町の北ならびに地所株式会社を設立している。これは海運業の余剰資金で購入した田地の保全と小作米の取立てを主業務とし,一部資金を以て銀行資金にふりあてたという(新佐賀市史3)。昭和34年佐賀球場に通じる市道が完成したため,町内にあった与賀神社一の鳥居は現在の末広1丁目に移転した。同48年一部が佐賀市長瀬町となる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7217081