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下石動村
【しもいしなりむら】


旧国名:肥前

(近世)江戸期の村名。神埼(かんざき)郡のうち。「しもいしない」ともいう(肥前国郡村仮名附帳写)。田手川(石動川)上流域の左岸,背振山地の南麓に位置し,北に上石動村,西に川を隔てて西石動村がある。地名の由来は,鎮西山に狼煙台を築くため石を運び,すっかりなくなったので「いしない」と呼ぶようになったと伝えられ,また,大水のとき川原の石が響きをたてて流れることによるともいう(続脊振山麓の民俗)。佐賀本藩領。上東郷に属す。給人・地米高は「玄梁院様配分帳」では石井弥七右衛門ほか1名の知行地,「大小配分石高帳」では江副孫次郎ほか6名の知行地。村高は,「正保国絵図」「天明村々目録」では608石余,「天保郷帳」では663石余,「旧高旧領」には見えない。天保期の戸数は蔵入地37・知行地33(御祓配帳)。草山は鎮西山北部にあり,宝暦6年に山入り道筋をめぐる争いが発生,藩の裁定により当村は坦金堂(だごんどう)筋よりと定められた(上峰村史)。上西郷志波屋村北方の大高山も入会地(神埼町史)。寺院に天台宗安空寺(坂本村修学院末寺)・妙楽寺があるがいずれも明治以後廃寺となる。村社の天満宮は菅原道真14代の孫立石広玄が元亀3年居宅の鬼門に社を建て,10年後妙楽寺を建立し箱川村妙雲寺の江国を住職に招いたと伝えられる(東脊振村70年史)。幕末から明治にかけて奈良新一が私塾を開いていた(県教育50年史)。「郷村区別帳」では石動村の枝村としてみえる。「明治11年戸口帳」によれば,石動村のうちに「下石動村」と見え,戸数75・人口332。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7217158