100辞書・辞典一括検索

JLogos

13

下今宿町
【しもいましゅくまち】


旧国名:肥前

(近世~近代)江戸期~昭和41年の町名。江戸期は佐賀城下の1町。寛政元年の幕府巡見使への報告に見える城下三十三町の1つ。佐賀城の東に位置する。佐賀江川に沿って東西に長くのび,町の長さは316間。東は枝吉村,西は南十間堀小路,南は今宿裏小路に接し,北は佐賀江川(今宿江)を挟んで材木町・紺屋町・江湖端に対する。竈数は,承応3年佐賀城廻之絵図では34,元文5年屋敷帳では74。嘉永7年下今宿町竈帳の総竈数97(明家2),人数467(男231・女236),身分別竈数は手明鑓2・家来2・足軽26・被官10・仲間1・その他の有姓者10・僧1・町人43,とくに多い職種の竈数は日傭取7・川船さし7・米屋4・うどん屋4。これによれば,身分別には町人が最も多く,次いで足軽・被官・その他の有姓者である。職種別では川船さしが最も多く,炭薪屋・問屋がこれに次ぐ。川船さしや問屋が多いのは,当地が佐賀江川に面した城下一の船着場であったからであろう。江戸中期には長崎街道通行の規定を無視して旅人が当町を通ることが多くなったので,藩は享和元年西の橋口に木戸番所を建て夜間は閉鎖している(泰国院様御年譜地取)。通りの東端から21軒目のところに御用商人蒲原家の広大な屋敷があった。同家は藩の蔵米を諸富(もろどみ)港から防州の船頭の船に積替えて上方に送っている。米のほかに炭・薪・味噌・醤油・酒なども取り引きし,天保6年の佐賀城大火後の再建に際しては多額の献金をしている(金穀出入控)。嘉永7年の竈数を宗派別にみると一向宗49・禅宗23・浄土宗17・日蓮宗3・真言宗3。寺院は東端近くに証明寺,中ほどに専光寺があり,ともに一向宗。前者は青竜山と号し,開基は乗光といわれるが,創建年代は不明。後者は安住山と号し,開基は了専で,元和7年の創建。了専は肥後国片志田の城主であったが,武芸にすぐれていたので鍋島直茂に招かれ,寺地を与えられて当地に創建したという(一向宗由緒・灯炬)。「明治11年戸口帳」によれば,戸数115・人口482。明治22年佐賀市に所属。昭和10年国鉄佐賀線が開通。同41年佐賀市田代1~2丁目・朝日町・紺屋町・今宿町となる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7217163