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下多久
【しもたく】


旧国名:肥前

多久盆地の東部で,鬼ノ鼻山の東北部,両子(ふたご)山の北西部に位置し,多久盆地で最も広い平地部が広がっている。牛津(うしづ)川が中央部を東西に貫流。今出川と牛津川に挟まれた台地上には縄文・弥生・古墳時代の遺跡があり,各時代の遺物を出土する。工場用地造成に伴って昭和52年まで発掘が続けられた牟田辺遺跡からは弥生時代の甕棺229基・土壙墓30・住居跡61棟,古墳時代住居跡4棟,および貯蔵穴30基,掘立建物5棟,その他遺物多数と長さ150m・幅4mのV字状の溝も発見され,弥生から古墳時代にかけて一大集落であったことが確認された。桐野山最尊院妙覚寺は,同寺由緒書によれば僧正行基が天平13年に勅命により草創し,行基手刻の観世音大師の像を安置し,天下安全の勅願所としたという。のち廃山となり,大同元年,天台宗と改まって復興した。当時寺の子院は120坊あったと伝えられ,観世音大師像をはじめ,四天王像・胎金両部曼陀羅・不動明王などが現存。また,子院の坊名が地名に残っている。源頼朝の御家人,津久井宗直は,建久2年多久荘に12万石を賜り地頭として下向し,南多久荘に陣内城を築き,続いて多久に梶峰城をつくり多久氏と改姓した。それ以後14代,竜造寺に滅ぼされるまで342年間多久地方を支配した。宗直は西ノ谷に高野神社を創建し,桐野山妙覚寺を再建して民心の安定をはかった。建久4年,宗直によって創建された延寿寺には,宗直の墓とされる五輪塔5基が現存(多久の歴史)。
下多久村(近世)】 江戸期~明治22年の村名。
下多久(近代)】 明治22年~現在の大字名。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7217193