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庄嶋里
【しょうじまり】


旧国名:肥前

(古代)条里の里名。建治3年12月20日付の十町分地頭・領家田地屋敷注文案に「庄嶋里卅坪二反西一二 米吉 たうしけん三郎殿中村方 庄嶋里十一坪二反なりきよ 北より五六 庄嶋北里卅二坪二反内一反はなしまへさか 一反かりやのけん二郎下 ひんかしのせんそへまち 庄嶋里十八西二反南一二 石吉 しまのつほたうしふくなかくその 庄嶋卅二坪一反中 石吉南付大仁王てん二反おなし 中村方 まんところ給 しやうしまかり以上九反中」「しやうしまかりさかくち五反」「しやう嶋かり二つへせまち」などと見える(橘中村文書/佐史集成18)。また,永仁5年11月22日付橘薩摩道蓮譲状案には「一,十楽うきたのりつほ 志布江西リ二ノ北ノ五反,二ノ十楽よこまくら也,庄嶋リ 十二ノ九段うしかひ 同り 十三ノ五反,二坪下五反といふ 同里廿一坪六段本司 同りの廿九坪八段内反神明てんハしりをちといふ 同り 卅坪五反三丈,明神田,南り 四反 をきに」とあり(小鹿島文書/佐史集成17),さらに南北朝期,建武2年8月3日付長嶋庄下村本物返田畠注文にも「肥前国長嶋庄下村内 一,丁子四反 庄嶋里六反 五藤五入道本物返今者死去当知行満彦六跡」とある(橘中村文書/佐史集成18)。現在の武雄(たけお)市橘町片白の沖永を中心として武雄川に至る地域を「庄嶋里」と称したものと推定されるが,「庄嶋南里」はこの南東側に接続する条里,同じく「庄嶋北里」また,永仁5年11月22日付橘薩摩道蓮譲状案に「庄嶋北西り 二ノ六反二丈つちはし」と記される「庄嶋北西里」はともに,武雄川を挟んでこの「庄嶋里」に接続する里と推定される。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7217251