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成道寺荘
【じょうどうじのしょう】


旧国名:肥前

(中世)鎌倉期~南北朝期に見える荘園名。佐賀郡のうち。佐賀市鍋島町蠣久(かきひさ)の津留(つる)の成道寺付近に比定される。豊前宇佐八幡宮弥勒寺領。宇佐宮弥勒寺喜多院所領注文に「島崎荘〈別院成道寺八十丁〉」とあり(石清水田中家文書),本来は島崎荘のうち,弥勒寺の別院成道寺の分であったところから,成道寺荘と呼ばれるようになったものか。承久2年12月日付検校祐清譲状にも弥勒寺正八幡宮権別当棟済分として「成道寺」とある(石清水文書/鎌遺2697)。正応5年8月16日付河上宮造営用途支配惣田数注文には「成道寺庄七十九丁」とあり,後欠の断簡ではあるが,肥前国御家人於保種宗所領注進状に「宗益次男貞益入道〈法名 心跡〉,成道寺庄〈本所八幡弥勒寺〉田地等」と見える(多久家文書/佐史集成10)。南北朝期に入ると同荘は闕所に付されたものか永和2年2月9日付常道寺村闕所注文に「肥前国佐賀郡内常道寺村,四十町領家職,四十町地頭職」とあり武雄神社に寄進されている(武雄神社文書/佐史集成2)。この「常道寺村」は領家・地頭両職に下地中分されており,合計80町はさきの「島崎荘〈別院成道寺八十丁〉」と一致するから成道寺荘と同一のものであろう。この時期に中分地となっているのは注目される。延慶元年9月25日同荘雑掌宗秀は荘内の名主給人らの年貢滞納を訴えた際,「又やすまつみやう(又安松名)は,そふ(祖父)きやうせいのときより,したちをちうふん(下地中分)せられと候ける事そんち(存知)せず候て,うたへ(訴)申て候といへども,ちうふん(中分)のより御うけふみ(請文)候あいだ,おう(於保)の五ろう殿の御ふんは,きやうこうさた(向後沙汰)をとゝめ候いぬ」とし(竜造寺文書/佐史集成3),又安松名は祖父の時に下地中分がなされていたのでそれを受け継いで領有している。於保五郎分は訴訟から除外すると述べている。下地中分の結果,南北朝期中頃を過ぎると地頭於保氏の台頭によって荘園の解体が進んだ。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
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