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精町小路
【しらげまちこうじ】


旧国名:肥前

(近世)江戸期の通称地名。佐賀城下の武家屋敷地。地名の由来は,泰長院の門前で寺男に寺米を精白させたことにちなむという。佐賀城の西に位置する。通りは石長寺の西側を南北に走り,さらに水月庵の南側あたりから西に走る。弘化2年の総着到によると,居住武士は西精と精町を含めて19名,その総石高は736石。平均石高は38石余となり,主に下級武士の居住地であった。元文5年の屋敷帳によると,鍋島能登をはじめ平士が7人,小城(おぎ)藩の家来が1人,手明鑓1人がいる。なお,寛政三博士の1人である古賀精里(弥助)は,はじめ当小路の一角に住んでいた。臨済宗山陽山泰長院があり,開山は守材,開基は竜造寺胤久,創建は元文9年という。敷地6反6畝13歩は免地で,寺領は佐賀郡今山村のうち15町7畝6歩を有した。3世住職是琢は文禄・慶長の役に際し鍋島直茂に従って渡鮮した。佐賀市の重要文化財に指定されている泰長院文書105通のうちには日明和議交渉に関する貴重な史料がある。宝林山無量寺は泰長院の東北部にあり,泰長院の末寺。開基は竜造寺秀俊で,開山は覚阿,天文年間の創建といわれる。初めは城内にあり,のち松原小路に移り,さらに当地に移った。敷地1反5畝25歩は免地で,佐賀郡今山村に寺領2町8反1畝29歩を有していた。現在は廃寺。また,泰長院の東南方に曹洞宗水月庵がある。もと中の小路の慈眼院の敷地にあり,鍋島直茂の参禅の地であったが,そこが3代藩主鍋島綱茂の西屋敷になったので,当地に移建された。敷地1反6畝20歩は免地であった。境内には「葉隠」の口述者山本常朝の師で「要鑑抄」の著者である石田一鼎宣之の墓がある。「明治7年取調帳」では与賀(よか)村の枝町として「精名」と見える。与賀村は明治14年に与賀町となるが,当地は明治前期に与賀町のうちに含まれるようになった。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
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