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新町
【しんまち】


旧国名:肥前

(近世~近代)江戸期~現在の町名。江戸期は唐津(からつ)城下の1町。町田川左岸,城下町の中央部に位置し,東は八百屋町,西は弓町に接する。唐津十七か町の1町で内町のうち。築城時の12か町に含まれず,惣行事や惣町月番になることができなかった。このため,慶応3年に諸役負担の嘆願を行ったが許されなかった。はじめは下級武士の居住地であったが,漸次職人たちが移り住み,町人町となった。文化年間頃の町筋は南北1町26間,古来本軒37,当時人数176(男92・女84),引合五人組56人,うち町年寄2・組頭2・大工棟梁2・酒屋1・糀屋2,寺に正円寺・安浄寺がある(松浦拾風土記)。法水山正円寺は浄土真宗本願寺派,名護屋山安浄寺は真宗大谷派で,ともに名護屋六坊の1つ(松浦拾風土記)。文化年間には彦山派山伏の覚源がいた(唐津拾風土記抄)。南端の稲荷社はもと庄崎山観竜院という彦山派山伏がいたといわれ,文化年間の覚源も観竜院の山伏であったと思われる。北端は名護屋道に接する浄泰寺前の広場をなし,明治中期頃まで市が立ち,周辺には商人が住んでにぎわいをみせた。江戸末期には大工が多く居住し,文化年間には大工棟梁の定八がいた(松浦拾風土記)。寛政11年の町火消し組は石崎支配組に所属(諸事控/唐津市史)。当町の曳山「飛竜」は弘化3年中里守衛重広が製作し,7番曳山。明治元年の軒数59・人数167(唐津市史)。藩領最後の町年寄は前川仁兵衛・石田伊左衛門(旧藩制ヨリ伊万里県マテノ諸控/県史)。明治3年の株仲間筆頭(株主支配)には酒屋仲間に石田伊左衛門,糀・醤油仲間に前川仁兵衛,呉服屋仲間に山口嘉右衛門がいた。「明治11年戸口帳」によれば,唐津町のうちに「新町」と見え,戸数52・人口196。明治22年唐津町,昭和7年からは唐津市に所属。明治22年から昭和22年までは大字唐津のうち。大正4年の戸数38・人口220。世帯数・人口は,大正14年50・275,昭和5年54・241,同35年86・368,同41年86・328。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7217345